狼と香辛料� Side Colors 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)見|渡《わた》せる [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ]  狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》� Side Colors  リュビンハイゲンでの騒動が丸く収まったことを祝し、ホロとロレンスはノーラと食事をしていた。しかし、体調を崩したホロは、不覚にも宴会の最中に倒れてしまう。そんなホロを見て、ロレンスは看病をしようとするのだが……? シリーズ初のホロ視点で語られる書き下ろし「狼と琥珀色の憂鬱」に加えて、ロレンスと出会う前のホロの旅を描いた「少年と少女と白い花」、港町パッツィオでの二人の買い物風景「林檎の赤、空の青」など、「電撃hp」に掲載され好評を博した2編を収録。  絶好調の新感覚ファンタジー、“色”をテーマに綴られた珠玉の短編集登場。 [#改ページ]      支倉《はせくら》凍砂《いすな》  1982年12月27日生まれ。第12回電撃小説大賞<銀賞>受賞。理系人間と文系人間の最大の違いは、ベンゼン環の図にときめくかどうかだと思う今日この頃。 イラスト:文倉《あやくら》十《じゅう》  1981年生まれ京都府出身のAB型。現在東京にて、フリーで細々と活動中。最近は狼と香辛料のアニメが作業中のBGMです。幸せ。見てると無性に旅に出たくなるので危険ですが……! [#改ページ]  Contents  少年と少女と白い花   11  林檎の赤、空の青    181  狼と琥珀色の憂鬱    225 [#改ページ]  少年と少女と白い花  小高い丘《おか》を越《こ》えたところで、クラスは道の脇《わき》に鎮座《ちんざ》している平べったい岩に腰掛《こしか》けた。  辺りには遮《さえぎ》るものがなにもなく、大して高い丘でもないのにかなり遠くまで見|渡《わた》せる。  どこまで行っても似たような風景が広がり、海に続く道だと聞いていたのに川すら見える気配がない。  この世に生を受けて今年で十年とちょっとのクラスには、海がどういうものかはいまいち想像できなかった。  しかし、聞いた話では道を歩いている途中《とちゅう》に見落としてしまうようなものではないらしいからまだまだ遠くにあるのだろう。杖《つえ》代わりの太い枝を脇《わき》に置いて、水の詰《つ》まった皮袋《かわぶくろ》を手に取った。皮の臭《にお》いがしみ込んだまずい水で少しだけ唇《くちびる》を湿《しめ》らせて、そよ風に茶色の髪《かみ》を揺《ゆ》らされてふと後ろを振《ふ》り返る。  自分たちが追い出された屋敷《やしき》はとっくのとうに見えなくなっている。それは寂《さび》しさよりもほんの少しだけざまあみろという気分にさせる。  なにがざまあみろなのかはよくわからなかったが、とりあえず目的のものは視界に入った。  途中に白い花が群れて咲いていたので立ち止まるだろうなとは思っていたら、案の定だった。  冬が終わり、からからに乾《かわ》いていた冷たい風は去り、柔《やわ》らかくて草の匂いがする空気に満ち満ちた春の日差しの下。名前も知らないし珍《めずら》しくもない花の前でしゃがみ込み、飽《あ》きもせず食い入るようにじっと見つめているその様は、花を食《は》んでいる羊に見えなくもない。  頭がすっぽり入るフードをかぶり、地面に届きそうなくらいに裾《すそ》の長い白いローブ。  近くに寄ってみればだいぶ薄汚《うすよご》れているのがわかっても、距離《きょり》をおくと羊のように見えなくもない。  名はアリエス。  自分の年は知らないと言っていたが、腹の立つことにクラスよりもほんの少しだけ背が高かった。  だから、自分よりも二つ年上なのだということにした。 「アリエス!」  クラスは名前を呼び、ようやくアリエスが顔を上げる。 「お昼までに四つ丘《おか》を越《こ》えようと約束しただろう!」  未《いま》だにアリエスの考えていることはよくわからないが、いくつかの事実は掴《つか》んでいる。  その一つが、なにかをお願いしても決してやってくれはしないが、こうしようねと約束すると約束は守ってくれること。  それに気がつくまで、少し歩いてはすぐに立ち止まるアリエスを何度置いていこうかと思ったことだろうか。  のろのろと立ち上がり、名残惜《なごりお》しそうに何度も花を振《ふ》り返りながら丘を上《のぼ》ってきたアリエスに、クラスはため息まじりに言葉を向けていた。 「そんなに珍しい?」  岩の上に座っているのでアリエスを見上げる形になる。  目深《まぶか》にフードをかぶっているその顔は、近くから覗《のぞ》き込むか、下から見上げるかしないとよく見えない。  だから、あまり表情に変化がないものの、その下にあるのがものすごく可愛《かわい》い顔なのだと気づいたのは旅を始めて少ししてからのことだった。 「あれは……花ですよね?」  そんなアリエスが、重要な事柄《ことがら》を確かめるように言った。 「花だよ。昨日も一昨日《おととい》も見たじゃん」  涼《すず》しげな青い眼《め》は丘の下に生えている白い花に向けられている。  またそよ風が吹《ふ》いて、フードから少しだけこぼれていた綺麗《きれい》な金髪《きんぱつ》が揺《ゆ》れた。 「でも……おかしいですよ」 「なにが?」  初めてアリエスがクラスのほうを向いて、首をかしげながら答えた。 「あの花の下に花瓶《かびん》はありませんでした。どうして枯《か》れないのですか?」  クラスはその質問に眉《まゆ》をひそめることもなく、視線をアリエスの顔からその下のほうに向けた。 「あー、もう、水がないんだから汚《よご》すなって言っただろう?」  ローブの袖《そで》に隠《かく》れたアリエスの手を取ると、その指先は土に汚れていた。  爪《つめ》の中にも土が入っていて、せっかくの綺麗《きれい》な手が台無しだった。  クラスが腰《こし》から下げている手ぬぐいで拭《ふ》いてやろうとすると、アリエスはすっと手を引いて鋭《するど》い視線で見下ろしてきた。 「汚れとは心にだけ生まれるものと言われました。嘘《うそ》をつくのはよろしくありません」  そして、そう言い放つ。  クラスはしばしなにかを言おうとして、諦《あきら》めた。 「そうだね。僕が悪かったよ」  アリエスは目元を少しだけ笑《え》みの形に変えて、満足げにうなずいた。  結局四つの丘《おか》は越《こ》えられず、約束は破られた。  ただ、どういうわけかアリエスから約束を破ったことに対するお説教を聞かされてから、昼ごはんにした。  アリエスが朝ごはんを食べることに対して頑強《がんきょう》に反対するために、昼ごはんは多めに食べないとやってられない。  とはいってもクラスの肩《かた》に掛《か》ける麻袋《あさぶくろ》に入っているのは、馬が食べるような燕麦《えんばく》の粉を顔が隠《かく》れるくらいの大きさに焼いた硬《かた》い硬い平べったいパン七枚と、炒《い》った豆。それと一握《ひとにぎ》りの塩に皮袋|一杯《いっぱい》分の水。  屋敷《やしき》を追い出された時にもらえたのはそれだけで、考えなしに食べたらあっという間になくなってしまう量だというのはすぐにわかる。  毎回決まった量のパンと豆を取り出したら、あとは固く固く口を縛《しば》っておく。  幸いアリエスはびっくりするくらいにごはんを食べない。今日も炒った豆を十|粒《つぶ》と、燕麦パンを八つに割ったかけらの一つだけ。ぎちぎちと歯にくっつく感じの嫌《いや》な硬さの燕麦パンを少しずつかじり、食べ始める前と食べ終わったあとにお祈《いの》りを捧《ささ》げている。  アリエスは神様に感謝しているのだそうだ。  クラスとしては、あのままではなにも食料を持たず旅をする羽目になっていたアリエスに貴重な食べ物を分け与《あた》えているのは自分なのだから、神ではなく自分に感謝して欲しいくらいだった。しかし、アリエスはそもそもその食べ物は神様がもたらしたものだから、と言う。  なにかずるいと思いつつも、言い返せないので黙《だま》ることにした。  アリエスには色々と理不尽《りふじん》な言いくるめられ方をしているクラスだが、アリエスの頭がものすごく良いかといわれれば、クラスは首をかしげてしまう。  とにかくなにより、アリエスは信じられないくらいになにも知らなかった。 「あ……」  と、アリエスが言って顔を上げたのでなにかと見れば、茶色の鳥が空を飛んでいた。  あれを捕《つか》まえて羽をむしって焼いたらおいしそうだよな、と思いつつ、アリエスが初めて鳥を見た時に言った言葉を思い出して、少しの間|燕麦《えんばく》パンのまずさを忘れた。突拍子《とっぴょうし》もないことというのはああいうことなのだろうと、感心してしまったくらいだった。  そんな物思いから現実に戻《もど》ったのは、アリエスの物問いたげな視線に気がついたからだ。 「あれは、鳥ですね?」 「そうだよ。蜘蛛《クモ》じゃないし、トカゲでもないよ」 「飛んでる……んですよね?」 「そうだよ」  噛《か》み締《し》めたせいで歯にくっついた燕麦パンを指で取りながら、とてもすごい秘密を聞いたように感心した顔で空を飛ぶ鳥を見つめているアリエスのことを、変だけど可愛《かわい》いなと思った。  アリエスは初めて鳥を見た時、天井《てんじょう》を蜘蛛が這《は》っている、と言ったのだ。  クラスはしばらくなにを言っているのかわからなかった。話を聞くうちに、アリエスが空をすぐそこにある天井だと思い、鳥のことをその天井を這う蜘蛛だと思っていたことがわかった。  クラスは驚《おどろ》きつつも馬鹿《ばか》にするのは男として情けないと思い、空というのはもっともっと信じられないくらいに高い木に支えられていて、鳥はその下を飛んでいるのだよと教えてあげた。  しばらく半信半疑だったアリエスは、地面から飛び立つ鳥を見てようやく納得《なっとく》してくれた。  万事がこんな感じなのだ。  地面から生えている花を見て、花瓶《かびん》がないのになぜ枯《か》れないのか、などまだいいほうだった。  アリエスは、クラスが小間使《こまづか》いとして働かされていた屋敷《やしき》の脇《わき》に建つ、高い石の壁《かべ》に囲まれた建物に住んでいたらしかった。  思い出せる限り昔のことを思い出してもその建物の中からは出たことがなく、本を読むのが数少ない楽しみだったという。  クラスも時折その建物に出入りしていた人たちのことは知っている。  噂《うわさ》話を聞き集める限り、屋敷に住む領主様が南の国の人に騙《だま》されて作った建物らしく、出入りをしているのも南のほうの人だということだった。  時折石の壁の向こうから聞こえてくる歌もまったく理解できず、南の国の歌なのだろうと思っていた。  ただ、そんな建物を建てた領主様は自分の領地にいるのを好まずに一年中あちこちを放浪《ほうろう》しているような人で、詳《くわ》しいことは執事《しつじ》様も知らないのでは、というのが使用人たちの統一見解だった。  そんな感じだったので、時折聞こえてきた歌が神様をたたえる特別な歌なのだということは、アリエス自身の口から聞いてようやく知った。  そしてその歌は、三回くらい間近で聞いた。 「さて、そろそろ行こうか」  最後の豆を口に放《ほう》り込んでクラスは言った。  ある日|突然《とつぜん》、屋敷《やしき》に見なれぬ人たちが大勢やってきた。彼らはたくさんの荷物を持っていて、たくさんの家畜《かちく》を連れてきていた。屋敷の者たちがなんだなんだと仕事の手を止めて眺《なが》めていると、自分は領主様の弟だと名乗った一番大きな腹をした一番身なりのいいおっさんが一番大きな声でこう言った。  今この瞬間《しゅんかん》から君たちはもうここの住人ではない。即刻《そっこく》荷物をまとめて出ていくのだ、と。  屋敷の主《あるじ》たる領主様は旅の途中《とちゅう》で死んでしまったらしく、代わりにその弟様とやらが屋敷に住むことになったのだが、なにが気に入らないのか石の建物の中の人たちを含《ふく》む全《すべ》ての人たちを文字どおり叩《たた》き出してしまった。  泣きわめく人や呆然《ぼうぜん》とする人、冗談《じょうだん》だと思っていつもどおり仕事をしようとしていた人や、弟様とやらにすがりつく人もいた中で、アリエスだけがふらふらと歩き出していた。  しばらくして、鶏《ニワトリ》に餌《えさ》をやるように飲み水だとかパンだとかを配り始めた新たな屋敷の住人から、二人分の食料を受け取ってクラスは走っていた。  海に続くというその道を、ふらふらとなにかに導かれるように歩いていった変な少女を追いかけるために。 「日が暮れるまでに六つ丘《おか》を越《こ》えようか。このままじゃいつ海に着けるかわからない」 「それは約束ですか?」 「うん、約束」  きっとまたアリエスのせいで六つの丘は越えられないだろうと思ったが、その約束を破ったのはクラスであり、悪いのはクラスということになるのだろう。  それでも立ち止まったアリエスを動かすにはこう約束をするしかない。  それに、約束が守れなかった時、少し怒《おこ》るように、呆《あき》れるように説教をするアリエスの顔を見るのは、正直、嫌《いや》ではなかった。  屋敷で怒鳴《どな》られたり殴《なぐ》られたりしながら重い水や藁束《わらたば》を運ぶ毎日よりかは、このアリエスとの旅はとてものんびりとしていて楽しかった。  ただ、とてつもなく緊張《きんちょう》することもある。それが夜だ。 「夜は決して怖《こわ》いものではありません。昼に太陽が、夜に月があるように、常に神が私たちを見守ってくれていますから」 「……は、はい」  かすれるような声で返事をしつつ、変に冷静な頭の一部分で、今自分たちのことを見下ろしているのはたくさんの星と少しだけ欠けたお月様くらいのものだと思った。  今二人が横になっているのは最後にたどり着いた丘《おか》の上。  辺りにはなにもなく、誰《だれ》もいないとわかってはいてもちょっと恥《は》ずかしかった。 「また、神は言われました。人は一人でいると飢《う》えと孤独《こどく》に襲《おそ》われ寒さに震《ふる》えることになる。けれども、二人でいれば少なくとも孤独は癒《いや》され、寒さも和《やわ》らぎます」 「……はい」 「まだ寒いですか?」  それにも危《あや》うく返事をしそうになって、クラスは首を横に振《ふ》った。  ただ、アリエスはそれを信用しなかったらしい。  クラスの背中に回した両|腕《うで》に少し力を込め、強く抱《だ》きしめてきた。 「飢えに耐《た》えるのは良き試練です。ですが、あえて寒くいることまで神は望みません」  もうこの言葉を聞くのは四回目でも、まだ緊張《きんちょう》で体が震えてしまう。  最初は緊張で眠《ねむ》れなかった。特にアリエスがこんなにも可愛《かわい》いのだと気がついたのだからなおさらだ。  ゆったりとした布の多いローブを脱《ぬ》いでそれを毛布代わりに体に掛《か》け、アリエスはしっかとクラスのことを抱きしめている。  春とはいっても夜になればまだ冷える。  ただ、屋根があるだけでほとんど毎日外に寝《ね》ているのと変わらない生活を送っていたクラスには、さしたる苦があるわけでもなかったのだが、野宿を神から与《あた》えられた試練と思っているアリエスはできる限りのことをしてくれようとしていた。  つまり、体を温めるには体の温かさを使うのだ。  二回目の夜は前日ろくに寝ていなかったのですぐに眠《ねむ》ってしまい、三回目は緊張《きんちょう》の果てになんとか眠れた。  四回目ともなるとだいぶ慣れてきたものの、アリエスの体は妙《みょう》に甘い匂《にお》いがして息をするたびに顔が熱くなる。蜂蜜《はちみつ》を塗《ぬ》って焼いたパンとも違《ちが》う、ふんわりとした甘い匂い。  ただ、クラスはこの状況《じょうきょう》にいくらか罪悪感がある。  というのも、一つアリエスに黙《だま》っていることがあるからだ。 「っくしゅ」  頭の上のほうでそんなくしゃみが聞こえた。  人の心配ばかりしているくせに、きっとアリエスのほうが寒いのだ。  もそり、とアリエスは少し身じろぎして、 「……このようなことを言うと神に怒《おこ》られるかもしれませんが」  顔は見えないが少しアリエスが笑ったのがわかった。 「一人では耐《た》えられなかったかもしれません。クラスが女の子で本当に良かったと思います」  クラスは一度だって女の子に間違《まちが》われたことなどないし、百人に聞いたって百人ともあり得ないと大笑いするだろう。  それでもアリエスはきっと本気でクラスのことを女の子だと思っているのだ。  なにせ、一度だけすれ違った荷馬車の馬を見て、真っ青な顔をしてこう言ったのだから。  あれが男という生き物ですか、と。 「私は眠くなってきました。おやすみなさい」  アリエスは器用なので、こう言ったあとに本当にすぐ眠ってしまう。  クラスはわざと返事をせず、黙っている。  そして、アリエスの兎《ウサギ》のような寝息が聞こえてきてから、誰《だれ》も見ていないことを願いつつその柔《やわ》らかい胸に少しだけ顔を当てた。 「おやすみ」と言い訳するように言ったのは、本当に言い訳だった。  その夜、ふと目を覚ました。  ちらりと視線を空に向ければ、少し欠けた月が中天をだいぶ越《こ》えていた。  夜中の中の夜中。  寒さもなかなかのもので、気恥《きは》ずかしさを押しのけてアリエスの体に手を回しなおした。  しばらくもそもそとして、ようやく楽な姿勢を見つけて一息つく。  辺りはとてもとても静かで、本当にアリエスの寝息《ねいき》しか聞こえてこない。  家畜《かちく》小屋の隅《すみ》で眠《ねむ》っていた時は、一度だって静かな夜などなかった。  家畜の食べ残した餌《えさ》を狙《ねら》って始終|鼠《ネズミ》が走り回り、当たり前のように服に入ってくる。そんな鼠を狙って蛇《ヘビ》や梟《フクロウ》が目を光らせているし、夜の来客はそれだけでない。鶏《ニワトリ》を狙った狐《キツネ》に、羊を狙った狼《オオカミ》だってやってくる。  危険が近づけば馬は暴れ鶏は叫《さけ》び鼠はますます盛んに走り回る。  アリエスと過ごす夜は静かすぎて耳鳴りがしそうなくらいだった。  それに、日が昇《のぼ》って朝が来ても自分をこき使う人たちはいないし、どれだけやってもなくならない仕事だってない。眠りにつけるのがこれほど嬉《うれ》しいことなんてなかった。  突然《とつぜん》屋敷《やしき》を放《ほう》り出されたのには驚《おどろ》いたものの、他《ほか》の人たちがなぜあれほど慌《あわ》てふためき、泣いてすがっていたのかよくわからない。仕事がなくなるのは嬉しいことなのに。  食料はあまり多いとはいえないけれども、全部食べきる前にきっと海に着けるだろう。海にはたくさん魚がいるらしいから、それを捕《つか》まえて食べればいい。なんならそこに住み着くのもいいだろう。  ただ、アリエスは魚を見たことがあるのだろうかと思った。きっと見たことがないはずだ。ならば教えてあげなくてはならない。魚は水の中にいても溺《おぼ》れない生き物なんだよ、と。  その様を想像して少し忍《しの》び笑いを漏《も》らした。本当に静かだ。  それから、改めて寝ようとして頭からもろもろのことを追い出すと、少しだけ、寝息以外に小さい音が聞こえてきた。  ト、ト、ト、というふうに聞こえる小さな音。  アリエスの心臓の音かもしれない。  その胸には柔《やわ》らかいものがついてるのに心臓の音はきちんと聞こえるんだ、となんとなく不思議に思ってから、なにかおかしいことに気がついた。  音は片方の耳から聞こえてくる。具体的には草地についている右耳から。  ト、ト、ト、トト、と聞こえてくる。  なんだっけ、これは。  そう呟《つぶや》いた直後、アリエスの背中に回していた腕《うで》は自分の背中に回り、杖《つえ》代わりの太い枝を掴《つか》んでいた。 「おっ……」  狼、と叫びそうになって危《あや》うく飲み込み、顔だけを上げて辺りを見る。  ドクンドクンと力強い音が耳に届く。これは自分の心臓の音。  心臓の動きに押されて勝手に口が「はっ、はっ」と言い出す。  固唾《かたず》を飲んで右を見る。左を見る。  空には月があり、見通しだっていい。  でも、狼《オオカミ》の姿は見えない。 「アリエス、アリエス」  掌《てのひら》が汗《あせ》ばんで口の中がからからに渇《かわ》く。  アリエスの肩《かた》を揺《ゆ》さぶりながら辺りを見回しても、やはり姿は見えない。  ただ、向こうもこちらの様子の変化に気がついたらしい。空気が変わったような気がした。  家畜《かちく》小屋で寝《ね》起きしていれば、奴《やつ》らだけ特別だというのは嫌《いや》だってわかる。  闇夜《やみよ》の中でそこだけ光る金色の目。  姿のない足音と、獲物《えもの》をさらっていく時だけ見える、足音のない姿。  アリエスはようやく目を覚ましたものの、その目の焦点《しょうてん》は合っておらず、いたずらしたくなるくらいに頼《たよ》りない。むしろ寝かせておいたほうが狼も見|逃《のが》してくれそうだ。  クラスは杖《つえ》を引き寄せて、もう一度地面に耳をつける。  狼は滅多《めった》に人を襲《おそ》わない、とクラスは信じている。鶏《ニワトリ》を咥《くわ》えたままクラスの顔をまたいだことが三回もある。ただ、あの時は鶏がいたから、と思わなくもない。  ト、ト、ト、ト、という音はやはり聞こえてくる。心なしかさっきよりも大きい。  きっと様子を見つつ牙《きば》を研《と》いでいるのだ。  どうしよう、と胸のうちで何度も呟《つぶや》き返す。アリエスを連れたまま走って逃《に》げられるとは到底《とうてい》思わないし、なによりも動いた瞬間《しゅんかん》に襲われそうだった。  どうしよう。  ようやく完全に目が覚めたらしいアリエスが、怪訝《けげん》な顔をしてこちらを見る。  クラスはその瞬間、冷水をかぶったように体が冷たくなり、口元に指を当てようとした。 「どうしました?」  そう言ってアリエスが体を起こすのと、たとえようのない美しさを秘めた遠吠《とおぼ》えが聞こえたのは同時だった。 「え、え?」  アリエスはきょろきょろと辺りを見回し、ただただ困惑《こんわく》している。  クラスは泣きたいような怒《おこ》りたいような気分に胃袋《いぶくろ》のあたりを突《つ》き刺《さ》されて、それでも我慢《がまん》して体を跳《は》ね起こすと視線の先にそれを見た。  月を頂いた丘《おか》の上でゆらと揺《ゆ》れた黒いいくつもの影《かげ》が、遠吠えの余韻《よいん》と共に闇の中に溶《と》ける瞬間を。  その直前、金色の瞳《ひとみ》と、目が合った気がした。 「っく、はやくっ、はやくっ、準備っ」  がくがくと震《ふる》える手で麻袋《あさぶくろ》を手に取り、訳がわからない様子で困惑しているアリエスの手を取った。  それでも腰《こし》が抜《ぬ》けて立つことができない。  消すことをやめた狼《オオカミ》の足音が、森の中を吹《ふ》き抜ける一陣《いちじん》の風のように聞こえてくる。  歯の根が合わないほどに怖《こわ》かったが、杖《つえ》を構えるくらいの勇気はあった。  アリエスを自分の後ろに引き倒《たお》し、腰が抜けたまま太い杖を槍《やり》のように構えた。  坂を駆《か》け下り闇《やみ》の池に飛び込んだ狼が、池の中から飛び出してくる。  金色の瞳《ひとみ》に射|貫《ぬ》かれて、自分の口も狼のように、笑うように横に裂《さ》けていくのが妙《みょう》にはっきりとわかった。  怖《こわ》さが勝手に歯を剥《む》かせた。  でも、狼はもちろん少しも怯《ひる》まずに一直線に飛びかかってきて——。 「……え」  突然《とつぜん》、先頭を走る狼が横っ飛びに飛んだ。  一瞬《いっしゅん》、真横から弓矢に射られたのかと思ったくらいだ。  クラスたちの脇《わき》を抜け、狼たちは着地してすぐに振《ふ》り返る。狼たちはちりちりと逆立つ毛の一本一本が見えそうなくらい近くにいる。  ただ、その視線は目の前の獲物《えもの》であるクラスとアリエスにではなく、どこか遠くに向けたまま身を低くしている。牙《きば》を剥き、低く唸《うな》って前脚《まえあし》を地面に突《つ》き立てている。  いつでも飛びかかれるといった具合だが、それは獲物を狩《か》るというよりも、敵を前にした時のそれだ。  自分の勇気におののいて?  そんなクラスの考えをよそに、狼たちは一点を見つめていて、そして、ふとした瞬間に弾《はじ》け飛んだ。  それが一斉《いっせい》に逃《に》げ出したのだと気がつくには、しばしの時間がかかった。  彼らの逃走《とうそう》は、来た時よりも速く、来た時よりも唐突《とうとつ》に。  あまりにも呆気《あっけ》なく危機が去り、自分が助かったという実感すらない。  狼たちが走り去るのをぽかんと見送ってから、しばしなにも考えられずにいた。  後ろのアリエスを振り向いたのは、背中を突つかれたからだ。 「い、一体どうしたのですか?」  アリエスは小刻みに震《ふる》えていた。 「狼だよ……危なかった」  もちろん震えるアリエスを笑うつもりなど毛頭ないが、自分が震えていることは悟《さと》られないようにと、必死に杖を握《にぎ》り締《し》めながら言った。  すると、アリエスの首は小さくかしげられた。 「お、おおかみ?」  そして、直後に可愛《かわい》いくしゃみをした。アリエスは狼を知らなかった。だとすれば、小刻みに震《ふる》えているのは単に寒いだけ。  クラスは槍《やり》のように構えていた杖《つえ》に目をやって、唇《くちびる》を少し尖《とが》らせる。それから、がっかりして杖を手放した。 「狼《オオカミ》。今、僕らを襲《おそ》おうとしてただろう? 牙《きば》を持った野獣《やじゅう》さ。人を襲うし、家畜《かちく》だって襲う」 「まあ。それは……男ですか?」  からかわれているんじゃないかと思った。  ただ、クラスは親ほども年の離《はな》れた馬の世話役の男の台詞《せりふ》を思い出して、それを口にした。 「そうだよ。男は狼さ」  その言葉にようやくアリエスの顔に恐怖《きょうふ》が宿り、はっとして辺りを見回す。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、もうどこかに——」  と、そのあとは続かなかった。  一瞬《いっしゅん》のうちにクラスの顔はアリエスの柔《やわ》らかい物に押しつけられて、息をするのもままならなくなったからだ。 「む……ぐ……」 「あ、安心してください。私が、あ、い、いえ、神は……神はいつでも私たちを守ってくださいます。なにも心配することはありません」  そう言いながら目一杯《めいっぱい》に抱《だ》きしめてくる。どちらかといえば、怖《こわ》がっているのはアリエスのほうだ。  もしもここで、男というのはね……と真実を教えたらアリエスはどうするだろうか。  嘘《うそ》をついて人を騙《だま》すのはクラスだって良くないと思う。  ただ、少しだけ顔をずらして一息つくと、アリエスの匂《にお》いが鼻の奥をくすぐった。  たった今命が助かったばかりなのに、それは恐怖の余韻《よいん》を忘れさせるのに十分なくらいにいい匂いだった。  やはり、しばらく黙《だま》っておくことにした。 「でも、あいつら、一体なにに驚《おどろ》いてたんだろう」  まさしく驚いたというのがぴったりくるような気がした。  狼の群れが驚くようななにかとは一体なんだろうか。  彼らが見つめていた方向にちらりと目をやっても、そこにはただの草原とところどころに闇《やみ》の池があるだけで、今はそこになにか魔物《まもの》がいるような禍々《まがまが》しさも感じない。  アリエスの腕《うで》の中ではその疑問はもちろん解けなかったが、緊張《きんちょう》はとっくに溶《と》けてしまっていた。冷《ひ》や汗《あせ》をかいたあとの人肌《ひとはだ》の温かさで、眠気《ねむけ》が戻《もど》ってきたらしい。大きな欠伸《あくび》をしてしまった。  クラスが身じろぎするとアリエスは少し腕を緩《ゆる》めたので、名残惜《なごりお》しかったけれどもそこから這《は》い出して言った。 「もう大丈夫《だいじょうぶ》だと思うから、寝《ね》よう。朝までは時間があるよ」  その言葉に、アリエスは結局うなずいた。  その頃《ころ》にはその顔から不安の色はなくなっていた。  翌朝、早起きのアリエスに起こされてまた一日が始まった。  一瞬《いっしゅん》昨夜のことを思い出してひやりとしたが、やはり狼《オオカミ》の姿はなく、ただ草地に残された足跡《あしあと》が、夢ではなかったのだということを示していた。  それからのことは今までとさして変わらない。  変わるといえば食料が少し減ったことと、水がなくなる心配が出てきたこと。  それと、アリエスの顔色が少し良くなかったことと、足が痛いと言い出したこと。  アリエスのことは少し休憩《きゅうけい》を挟《はさ》めばいいとして、水の問題はとても困った。空腹は一週間|我慢《がまん》できても水は三日飲まないと死んでしまうという話を、領主の館に来た旅人から聞いたことがある。 「川がどこにあるかなんて、知らない、よね?」  試《ため》しにアリエスに聞いてみても、案の定だった。  どこまでもどこまでも続きそうな荒野と、その上をのっぺりと這《は》っている細い道。  少し高めの丘《おか》の上にたどり着くたびに、そろそろ海か町が見えないかと目を凝《こ》らす。もう館を発《た》って五日目なのだから相当な距離《きょり》を来たはずだ。世界一周だって二ヶ月もすればできると話に聞いた。  生まれてからずっと狭《せま》い建物の中で暮らしていたというアリエスのことを心のどこかで少し馬鹿《ばか》にしていたが、クラス自身、世界がこれほど広いものだとは思っていなかった。  それになぜか無性に腹が立って、歩を速めた。  昼を過ぎ、夕方になって、休憩を挟んだりアリエスの足の遅《おそ》さを怒《おこ》ったりしながら、なんとかこれまでで一番多い十二個目の丘にたどり着く。  やはり目に映るのは草と木立《こだち》と丘、丘、丘。  後ろを振《ふ》り向くと、花や虫に興味を示さなくなった代わりに歩くのが辛《つら》そうなアリエスがいる。少し丘を下ったところで立ち止まっているが、歩き出す気配はない。  対して、クラス自身はまだまだ歩けるし、なにより町に着かないのはこれまでの歩く速度が遅すぎたのだという思いがふつふつと湧《わ》き起こる。  アリエスだってもう少し歩けるはず。ため息まじりに声をかけようとすると、ついにアリエスはその場にしゃがみ込んでしまった。  少ない水と、見えない次の町。本当にあるのかわからない道の先の海に、そして、予想外に広すぎる世界。  そんな言葉が頭の中に浮かび、苛立《いらだ》ちが込み上げてくる。昨日まであんなにのんびりとして楽しかったのに、今日はだらけすぎだとしか感じられない。  舌打ちしたい気持ちになって、隠《かく》さずにしてしまう。  相変わらず、立ち上がらない。 「っもう……」  声をかけるのも面倒《めんどう》くさいくらいにイライラとして、置いていこうかと一瞬《いっしゅん》思う。  一本道なのだから迷うこともないはずだ。  それもいいなとあれこれ考えていると、変な音がした。 「?」  アリエスのほうを見ると、片手を地面についていた。  そして。 「あ、アリエス!」  むく、と背中が盛り上がったかと思うと、ぱしゃっと嘔吐《おうと》物が散った。  あまりのことに動けないでいると、アリエスはそのまま顔を上げずに横向きに倒《たお》れてしまう。  荷物も放《ほう》り出して慌《あわ》てて駆《か》け寄った。 「アリエス! アリエス!」  心配というよりもほとんど驚《おどろ》きだった。  駆け寄って抱《だ》き起こし、フードを取って名前を呼ぶ。  アリエスはぐったりとして動かず、少し開いた唇《くちびる》の間から舌べろが見えていて思わず死にかけた羊を連想してしまった。 「アリエス!」  驚きの次にやってきたのは心配ではなくて恐怖《きょうふ》。  アリエスが死んでしまう。  泣きそうになって、細い肩《かた》を揺《ゆ》する。頬《ほお》を叩《たた》く。それでも何の反応もない。  今度はこっちが吐《は》きそうなくらいの恐怖が込み上げてくる。  直後、アリエスがまたえずいた。  よかった、死んでない。  そう安心したのもつかの間、もう吐くものがないのか身を小さく曲げて苦しそうに唸《うな》り出す。  クラスは目尻《めじり》の涙《なみだ》を拭《ふ》いて、思いついたように腰《こし》の手ぬぐいでアリエスの口の周りを拭いた。  しかし、それからどうすればいいのかわからない。  薬草、という単語が頭に浮かんだものの、周りに生えている草はとても効果がありそうにない。  アリエスの苦しそうな息が段々小さくなっていく。それが命の灯火《ともしび》のように思えてきて、怖《こわ》さのあまりぼろぼろと涙《なみだ》がこぼれてくる。  アリエスは疲《つか》れていたのではなく体調が悪かったのだろうか。  それならもっと休憩《きゅうけい》だって取ってゆっくりと歩いたのに。  そんな言い訳とも後悔《こうかい》とも取れる思いばかりが胸中を乱れ飛び、口から出てくるのはまともな言葉にならないアリエスの名前だけ。  それでも必死にその名前を呼びながら、なんの抵抗《ていこう》もない肩《かた》を揺《ゆ》する。 「ふぐ……どうひ……どうしよう……」  誰《だれ》か助けて、というのは言葉にならなかった。  こんなところで誰かが助けに来てくれるわけがない。  もしも来てくれるのだとしたら、アリエスが毎日|祈《いの》っていた胡散臭《うさんくさ》い神様くらいのものだ。  しかし、助けてくれるならインチキの神様だっていいと心の底から強く願う。 「神様……」  だから、クラスは、それを神様の声だと思った。 「どうしたかや」  軽く膝《ひざ》が浮いてしまうくらいにびっくりして顔を上げる。  でも涙でぼやけて前が見えない。  必死に拭《ぬぐ》ってもう一度見る。  誰もいない。 「そんな……」  またじわりと涙が浮かんできた。 「どうしたかや、少年」  後ろ。  クラスが振《ふ》り返ると、逆光の中に誰かが間違《まちが》いなく立っていた。 「病か」  口調に似合わない澄《す》んだ声。相手は逆光の中にいるうえに、こちらが座っているので相手の顔も身長もわからない。  それでも、自分以外の誰かがいてくれると思っただけでクラスの目からは情けないくらい涙があふれ出てきた。 「わ、わか、わからない、です……き、急に倒《たお》れて……」 「ふむ」  と、影《かげ》の人は呟《つぶや》き、軽い身のこなしでクラスの前に回り込む。  それでようやくどんな人物なのかわかった。  女の人。 「む、こ、これはっ」  アリエスの横顔を覗《のぞ》き込むなりその女の人は深刻そうに言った。  無意識のうちに背筋が伸《の》びる。  言葉が続いた。 「単なる疲《つか》れじゃな」  そして、拍子抜《ひょうしぬ》けした。 「……へえ?」 「ほれ、足がこんなに硬《かた》くなっておる」  横になっているアリエスのふくらはぎに手を伸《の》ばして女の人は言う。 「で、で、でも」 「何度も休憩《きゅうけい》を求めておったじゃろう?」  ぐっと言葉に詰《つ》まる。 「ましてや、ろくに食事もしておらぬ。倒《たお》れるのは道理じゃな」  言われてみれば当たり前に過ぎる。  そう思うと同時に、すぐにおかしなことに気がついた。 「な、なんでそれを」 「む。口が滑《すべ》った」  わざとらしく口に手を当て、女の人はそっぽを向く。  自分たちをどこかから見ていたのは間違《まちが》いない。  しかし、クラスは丘《おか》の上に上がるたびに辺りを見回していたのだ。  誰《だれ》かが隠《かく》れられるような場所なんてない。  一体どこから見ていたというのか。 「本当は声をかけぬつもりじゃったがな。これがあまりに不憫《ふびん》でな」  アリエスの腰《こし》をぽんと叩《たた》き、クラスを責めるような目で見る。  かっと胸の中に熱いものが生まれた。 「ぼ、僕はちゃんとアリエスのことを——」 「気にかけていたと? ふん。ぬしとこれとは体のつくりからして違うと知っておるじゃろう?」  その言葉に、どきりとする。  単に言い返せないとかではなく、狼狽《ろうばい》した。 「くふ。わっちゃあ昨晩からぬしらを見ておった。体のつくりが違うことは、ぬしもよーく知っておろう?」  表情がころころと変わり、粘《ねば》つくような笑《え》みを浮かべてそう言った。  クラスは顔がどんどん熱くなっていくのがわかる。  見られていたのだ。 「雄冥利《おすみょうり》に尽《つ》きるとはあのことじゃな。ま、しかし」  立ち上がった女の人は片手を腰に当て、唇《くちびる》をつり上げて歯を見せた。 「ぬしは狼《オオカミ》を前に果敢《かかん》に立ち向かった。その勇気だけは褒《ほ》めてやろう」 「え、あっ……あっ!」 「ふうむ。察しの悪い小僧《こぞう》じゃな」  意地悪そうな笑みになってクラスを見下ろすその女の人には牙《きば》が生えていた。  いや、それだけじゃない。  今の今までまったく気がつかなかった。  あまりにも異質すぎて目に入らなかった。  目の前の、マントを羽織り腰帯《こしおび》を巻き、どこかの貴族のように毛皮の縁取《ふちど》りをしたズボンを穿《は》いた亜麻色《あまいろ》の髪《かみ》の毛をした女の人の頭には、あまりにも妙《みょう》なものがあったのだ。 「今更《いまさら》これに気がつくとは、これにも気がついておらぬか」  そして、マントをばさりと払《はら》った。 「あ……あ……」 「良い毛並みじゃろう?」  わさり、と音を立てて毛の塊《かたまり》が揺《ゆ》れる。  見事な、あまりにも見事な狼の尻尾《しっぽ》が揺れ、頭の上で対になる獣《けもの》の耳が動いた。  その瞬間《しゅんかん》、クラスの頭に昨晩の狼《オオカミ》たちの反応が閃光《せんこう》のように蘇《よみがえ》った。 「も、もしかして」 「もしかして?」  女の人の試《ため》すような目が突《つ》き刺《さ》さる。 「昨晩、僕たちを……たす、助けてくれたのは……」  風が少しだけ吹《ふ》き、マントの裾《すそ》と尻尾《しっぽ》の先が揺《ゆ》れた。  夕日を横から受けた顔が、「やれやれ」と無言のうちに言っていた。 「や、やっぱり、昨晩、狼を、追い払《はら》ってくれたんですね?」 「わっちゃあ近くで寝《ね》ておっただけじゃ。向こうがわっちに気づいて勝手に尻尾を巻いて逃《に》げた。それだけじゃ」  つまらなそうに女の人は言うが、クラスは口をパクパクさせたあとに唾《つば》を飲み込んだ。  時折人の世に降りてきて、人々に幸運を授《さず》けたり、時にはいたずらをしたりする、人に似た人ではないものたちの話を何度か聞いたことがある。  クラスは、恐《おそ》る恐る呟《つぶや》いた。 「ま、まさか、精霊《せいれい》様……」 「違《ちが》うっ」  突然《とつぜん》怒《いか》りを顕《あら》わにされ、思わずのけぞってしまう。  ただ、目の前の獣《けもの》と人がまざった不思議な存在は、すぐにばつが悪そうな顔をした。 「むう……た、確かにぬしら人からはそんな感じで呼ばれることもありんす。じゃが、わっちゃあそういう呼ばれ方を好まぬ」  怒鳴《どな》ってしまったのを恥《は》ずかしがるように唇《くちびる》を尖《とが》らせている顔は、ちょっとの年しか離《はな》れていないように見える。  それに、その顔は間違いなく美人だった。 「ど、どう……お呼び、すれば?」  見よう見まねの大人たちの言葉|遣《づか》いでそう訊《たず》ねると、またしても不機嫌《ふきげん》そうに片|眉《まゆ》をつり上げられた。 「わっちゃあそういうのも好まぬ。それに、ぬしの舌がもつれて絡《から》まったら解くのが厄介《やっかい》じゃ」  馬鹿《ばか》にした笑《え》みを向けられかっと頬《ほお》が熱くなるが、相手は精霊様だと思い出してうつむいた。  すると、小さなため息のあとに、精霊は大地に顔を近づけた。 「顔を上げてくりゃれ。わっちゃあ単にぬしらのおぼつかない旅を少し支えてやろうと思っただけじゃ。ぬしらに崇《あが》められたくて姿を現したわけではありんせん」  怖《こわ》くて顔は上げられない。  それでも、恐《おそ》る恐る視線だけは向けた。 「くふ。そういう顔がまだ似合う年頃《としごろ》かや」  視線を上げて目に入ったその笑顔《えがお》に、世の中にはたくさんの種類の笑顔があるのだと知らされた。その笑顔を見た瞬間《しゅんかん》にまた視線を下げてしまい、さっきよりも顔が熱くなったが、その理由はまったく違《ちが》う。  だから、今度は精霊様も怒《おこ》らなかった。 「わっちの名はホロ」  ちょこんとしゃがんだ精霊様は、短く言った。  自己|紹介《しょうかい》された、と気がつくまでしばらくかかった。 「ぼ、僕の名は、クラス……です」 「ですはいらぬ」 「は、はい」  ホロと名乗った精霊様は苦笑いをして、立ち上がった。 「これの名はアリエスだったかや」 「そう、です、けど」 「なぜ知っているのかと?」  クラスはこくりとうなずく。 「散々|可愛《かわい》い声で呼んでおったじゃないかや。アリエス、アリエスぅ」  自分の両|肩《かた》を抱《だ》いてそう言うホロに、クラスはようやく落ち着きが戻《もど》っていた顔にまた血が昇《のぼ》ってくるのを実感した。 「しかしな、弱っておる者を揺《ゆ》するのはよくないと思いんす」  どきりとして、手元のアリエスの顔を見る。 「気を失っていくらか落ち着いておるじゃろ。口をすすいでやって、温かくすることじゃな」  喉《のど》にパンでも詰《つ》まらせたようにうなずき、横向きにひねるように不自然な姿勢で倒《たお》れたままだったアリエスの体を楽そうな姿勢に直してから、クラスは立ち上がった。  放《ほう》り出した荷物までさしたる距離《きょり》があったわけでもないが、アリエスを一人にするのがとても心配でつい走り出すのをためらってしまう。  すると、ホロが「見ててやるから」とばかりに顎《あご》をしゃくった。  クラスはようやく走り出したものの、ちらりと後ろを振《ふ》り向くと、ホロがアリエスの脇《わき》にしゃがみ込んでなにか呟《つぶや》いていたように見えた。  それがどこか内緒《ないしょ》話をしているように思えて気になった。 「まったく、季節が冬ならばとっくに野垂《のた》れ死《じ》にじゃな」  クラスがアリエスの介抱《かいほう》をしている最中に荷物を検《あらた》めたホロは、呆《あき》れるようにそう言った。 「毛布すらないとは。雨に降られたらどうするつもりだったのかや」 「え? ええーと……」  と、考えながらクラスはアリエスの口の周りを濡《ぬ》らした手ぬぐいで拭《ふ》いてやる。  温かくしてやるといっても火を熾《おこ》す薪《まき》もなければホロの指摘《してき》どおり毛布もなく、仕方なく上着を一枚|掛《か》けてやっていた。 「雨宿り、とか……」  すると、ため息をついて呆《あき》れるようなまなざしを向けてくる。  クラスは、ついうつむいてしまう。  見|渡《わた》す限り雨宿りできるような場所はなかったからだ。 「近くに川もなければ泉もないようなところをふらふら歩いておる二人連れがおったから面白《おもしろ》半分にあとをつけておったが、よもやここまで考えなしだったとは」  そこまで言われるとさすがに腹が立ったが、怖《こわ》いのでなにも言えない。 「もっとも、おかしなことといえば、そもそもぬしらの取り合わせからして奇妙《きみょう》じゃからな。なぜ子供が二人で旅など?」  子供、と言われてクラスはついホロのことを見つめ返してしまう。  ホロはいくらか年上の雰囲気《ふんいき》だが、大人と呼べるほど大人ではないと思った。 「たわけ。わっちゃあ少なくとも二百は年上じゃ」 「ご、ごめんなさい」  そう言われるとそう見えるから不思議だ。  なにせ相手は精霊《せいれい》様なのだからなにがあってもおかしくはない。  そう自分を納得《なっとく》させてから、隠《かく》すことでもないので聞かれたことを話した。  ごろりと横になり、勝手に袋《ふくろ》の中から燕麦《えんばく》パンを取り出してぼりぼりかじっていたホロは相槌《あいづち》の代わりに時折|尻尾《しっぽ》を動かしていた。  クラスが話し終わるのとホロがパンを食べ終わるのはほぼ同じで、歯の間に挟《はさ》まったパンを指で取りつつホロは身を起こし、「うむう」と唸《うな》った。 「ぬしが追い出された屋敷《やしき》とはアンセオとかいう名の貴族の住むところじゃろう」 「は、はい……。知ってるんですか?」 「ちょっと前までいた町で小耳に挟みんす。田舎《いなか》の地に変わり者の貴族がおると。しかしそうか。死んだのか」  領主様が変わり者かどうかはわからなかったが、田舎の地と呼ばれたのは少し不快だった。  屋敷は立派なものだったし、使用人の数は二十をくだらない。敷地にはアリエスがいたような石造りの建物だってあった。  それに、近くには葡萄棚《ブドウだな》や村だってあったのだ。  クラスがそう思っていると、ホロからにやにやと笑うような視線が向けられていることに気がついた。 「まさしく旅立って間もない雛《ひな》じゃな」 「……」  なぜ笑われるのかわからなくて、悔《くや》しくてクラスはそっぽを向いた。  それがまたホロの笑いを誘《さそ》ったようで、忍《しの》び笑いが口から漏《も》れていた。 「怒《おこ》るな少年。大体、ぬし自身世の広さを前に驚《おどろ》いていたじゃろうが」  どきりとしてホロに顔を向ける。 「なに、それがわかるのはわっちも旅に出てから同じことを思ったからじゃ」  いいように押したり引いたりされているような気がしたが、嘘《うそ》をついているようにも見えなかった。 「……そう、なんですか?」 「うむ。世はあまりに広い。そして……」  と言葉を切ったホロの視線を追いかけると、いつの間にかすぐ側《そば》で眠《ねむ》っていたアリエスの目がうっすらと開いていた。 「アリエス」  目の前のホロのことも忘れてクラスが声をかけると、いつもの寝《ね》起きより数倍早くアリエスの目の焦点《しょうてん》が合った。 「あ……あれ、なぜ、あれ?」  自分の置かれている状況《じょうきょう》がよくわからないといった感じで体を起こそうとしたので、クラスは慌《あわ》ててそれを押さえて言った。 「ついさっき倒《たお》れたんだよ。覚えてない?」  そう言われてようやく思い出したらしい。  だいぶよくなっていた顔色に、少し赤いものがまじった。 「神に仕える者として、恥《は》ずかしい限りです。でも、もう大丈夫《だいじょうぶ》です」  たった五日の旅でもアリエスの性格はなんとなくわかってきている。  寝ていなと言って寝そうかどうかも口調からわかる。  今度は起き上がるのを止めずにいると、当たり前だけれどもすぐにホロのことに気がついた。 「あら……」  そして、そんなふうに呟《つぶや》いたまま言葉が途切《とぎ》れてしまう。  頭の上には獣《けもの》の耳。腰《こし》からは立派な狼《オオカミ》の尻尾《しっぽ》を生やしている紛《まぎ》れもない精霊《せいれい》様を突然《とつぜん》目《ま》の当《あ》たりにしているのだ。驚《おどろ》くのも無理はない。  ただ、アリエスは無遠慮《ぶえんりょ》にホロの人のものならざる付属物を眺《なが》めている。  ホロがその無礼な振《ふ》る舞《ま》いに怒り出さないかとハラハラする。それにアリエスは昨晩の出来事で、狼を男だと思って恐《おそ》れている。  何かとんでもないことを言い出しかねない。  クラスはそう判断して耳打ちしようとしたところ、しばし固まったまま動かなかったアリエスは、突然《とつぜん》合点《がてん》がいったように大きくうなずいた。 「あ……海の向こうから来られた方ですね」  別の方向に突拍子《とっぴょうし》もない言葉で、クラスは慌《あわ》てて訂正《ていせい》しようとしたが、それは当のホロによって遮《さえぎ》られた。 「うむ。北の国から旅をしてきたホロという」  怒《おこ》るどころかむしろ機嫌《きげん》良さそうに笑い、それを裏づけるかのように尻尾《しっぽ》が楽しそうに揺《ゆ》れている。  アリエスはクラスが掛《か》けていた上着を取って優雅《ゆうが》な振《ふ》る舞《ま》いで一礼して、「アリエス・ベランジェです」と名乗った。  王様すら頭を下げると聞いたことがある精霊《せいれい》を前に実に堂々としているが、知らないということは恐《おそ》ろしいと思った。  ただ、精霊は精霊だけが住む国からやってくると聞くので、アリエスの言ったことも間違《まちが》いではないのかもしれない。 「それでどのようなご用件でしょう」  これが屋敷《やしき》内でなら様になっただろうが、さすがにクラスは黙《だま》っていられず口を挟《はさ》んだ。 「ち、ちがうよ。ホロ、さんはアリエスを助けてくれたんだよ」  名前のところでつっかえたのは、様と呼ぶか迷ったからだ。  一瞬《いっしゅん》のところで「さん」にしたのは、ホロの琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》が鋭《するど》く光ったからに他《ほか》ならない。  どういうわけか、様づけは好まないらしい。  アリエスは再度|驚《おどろ》いて、それから少し慌てて居住まいを正した。  クラスはアリエスがきちんと礼を言えるのかと訝《いぶか》しんだが、それも一瞬のことだった。  背筋を伸《の》ばしたアリエスは、驚くほど大人びて見えた。 「それは失礼いたしました。改めて御礼《おれい》を」  そう言って、食事の前後にするようなお祈《いの》りよりも丁寧《ていねい》に手を組んで頭を下げた。  アリエスの対応にほとんど呆気《あっけ》にとられつつも、ホロを見るとそれにご満悦《まんえつ》のご様子だ。とりあえず怒《いか》りを買うことは避《さ》けられたとほっとした。  それでもやはり、アリエスがこんなにもしっかりしていたなんて驚きだった。 「それと、そういうことでしたら助けていただいた御礼になにかできればと思うのですが」 「礼かや」 「はい。生憎《あいにく》と旅の身のうえであり、できることは限られますが」  花の下に花瓶《かびん》がないのに枯《か》れないのはなぜ? と言って首をかしげていたアリエスとはまるで別人に見える。  したり顔であれこれ教えていたのが急に恥《は》ずかしくなってきた。 「ふむ。物はいらぬ。代わりにと言ってはなんじゃが……」  と、ホロはクラスを一瞥《いちべつ》する。  同時にアリエスもクラスのことを振《ふ》り向き、そのい一瞬《いっしゅん》、蛇《ヘビ》に睨《にら》まれた蛙《カエル》のような気持ちになったのはなぜだろうか。  体のつくりがそれぞれ違《ちが》う三人は、それでもクラス一人がのけ者という形にならなくもない。  ホロは楽しそうにあとを続けた。 「わっちをしばし旅に同行させてくりゃれ?」 「え!」  思わず声を上げたのはクラスで、再度二人から視線を向けられた。  反論が許される感じではない。  それに、アリエスがホロのほうを向きなおってにこりと笑いながらこう言ってしまった。 「そのようなことでよろしいのであれば」 「ありがたい」  昔から仲の良かった友達のように笑顔でうなずき合い、二人は勝手に話を進めてしまっていた。  クラスは色々と面白《おもしろ》くない。  でも、なぜ面白くないのかはよくわからなかった。 「では、わっちの荷物が向こうにあるから、ちょっと運ぶのを手伝ってくりゃれ」 「あ、はい」  アリエスが立ち上がりかけたので、それはクラスが止めた。 「アリエスは休んでて」 「ですが」 「休んでて」  少し強めに繰《く》り返すと、びっくりしたように、おずおずとうなずいた。  どこか楽しげにそんなやり取りを見ていたホロは、「こっちじゃ」と歩き出した。 「ふふ。あんな一方的に言わぬでもよいのに」  歩き出してすぐに、前を行くホロが言った。 「う……いえ……」 「力仕事は雄《おす》の仕事、と言えばそれで十分じゃろう?」  そして、肩越《かたご》しに振り向かれ、その琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》を見た瞬間にクラスは顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。  ホロは全部知っている。 「くふっくっくっ……難儀《なんぎ》じゃな」  マントの下で、尻尾《しっぽ》が楽しそうに揺《ゆ》れていた。 「ま、雄《おす》なら十中八九ぬしと同じように振《ふ》る舞《ま》うじゃろうからな。気にすることはありんせん」  励《はげ》ますように背中を叩《たた》かれながらそう言われても全然|嬉《うれ》しくない。  その顔は今にも大笑いしそうなほどの笑顔《えがお》だったからだ。 「なんじゃ、わっちゃあぬしの味方だというのに」  嘘《うそ》ばっかり、という言葉は胸中だけで。  からかわれていることくらいクラスにだってわかる。 「うふ。からかっておるのも事実じゃ。じゃからな」  すいっと一歩前に出て、ホロは下からクラスの顔を覗《のぞ》き込むようにした。  狼《オオカミ》が獲物《えもの》を前にした時のような目。  魅入《みい》られたように、その琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》から目が離《はな》せない。 「今夜は三人で寝《ね》よう? もちろんぬしが真ん中じゃ」  その言葉を聞くや否《いな》や、なによりも先にその様を思い浮かべてしまい、直後、足がもつれてすっ転んだ。  ホロがアリエスに旅の同行を求めた時、蛇《ヘビ》に睨《にら》まれた蛙《カエル》のような気持ちになったのはこういうことだったのだ。  草地の上に倒《たお》れ込んだクラスの目の前に、ホロがしゃがみ込んでこう言った。 「なんじゃ、夜まで待てぬかや」  意地悪そうな笑顔。  ただ、それに怒《おこ》るよりも先に、その笑顔とアリエスの笑顔を比べてしまっていた自分に気づき、クラスは呆《あき》れ果ててその場に突《つ》っ伏《ぷ》してしまった。  なんだか自分がとても情けない生き物のような気がする。  こつこつと頭を小突かれ顔を上げると、ホロは優《やさ》しそうな顔でこう言った。 「わっちがぬしを一人前の雄にしてやろう」  クラスは再び顔を突っ伏した。  気疲《きづか》れしそうな三人旅が、始まったのだった。  久しぶりにくしゃみで目を覚ました。  ここ何日かずっと暖かかったのに、と包《くる》まった毛布の下で思ってから、そうではないことを思い出した。  昨日は久しぶりに、視界を遮《さえぎ》るもののない丘《おか》の上で一人|眠《ねむ》ったのだ。  それまではといえば、旅の道連れと暖を取るため寄り添《そ》って寝ていた。  アリエスという、少し風変わりな女の子と。  思い出すだけで朝の寒さが吹《ふ》き飛んでしまうが、昨晩に限ってそうしなかったのにも理由がある。  ある日|突然《とつぜん》住んでいた屋敷《やしき》を追い出されたクラスとアリエスが、海に続いているという道をのんびり旅しているところにふらりと現れた不思議な客。名をホロといい、クラスたちよりも二百|歳《さい》は年上だという彼女は、どう見てもアリエスと同じか、もう少し年上かといった見た目をしている。しかしその頭には獣《けもの》の耳が、その腰《こし》からは狼《オオカミ》の尻尾《しっぽ》が生え、唇《くちびる》の下には鋭《するど》い牙《きば》があってその言葉を疑うこともできなかった。  そして、クラスが寒いのを我慢《がまん》して一人で眠《ねむ》った理由だが、それはホロのせいだ。  ホロは昨晩「三人で寝《ね》よう」などと言い出したのだ。  クラスがアリエスとなんとか眠れたのは、アリエスがあまりの世間知らずのせいでクラスのことを男と思っていないから。  しかし、ホロは違《ちが》う。  ホロはクラスのことをからかいたくてそう言っているのだ。  いくら偉《えら》い精霊《せいれい》様の提案だって、断固受け入れることはできなかった。  それで、結局はクラスが毛布を借りて一人で眠り、ホロとアリエスが互《たが》いのローブとマントを毛布代わりに一緒《いっしょ》に眠ることにした、のだが……少しもったいなかったかなと、ホロとアリエスが寄り添《そ》って眠っているところを想像してそんなことを思ってしまった。  ホロは精霊様のくせに意地悪だし、アリエスはアリエスでよくわからない性格だったけれども、どちらも綺麗《きれい》だということは間違《まちが》いない。  もちろん今更《いまさら》どう転んだって二人の間に入れてくれなんて頼《たの》めないが、見るくらいならいいだろう。  そう思ってそっと毛布から顔を出すと、目の前にホロがいた。 「なぜそんな顔をしておるか当ててやろうか?」  胡坐《あぐら》をかいて、どうやら尻尾の手入れをしていたらしい。  クラスは毛布の下に顔を隠《かく》すこともできず、ただ力なく首を横に振《ふ》ったのだった。 「ぬしが一番最後じゃな」  のそのそと毛布から出ると、確かにアリエスもとっくに起き出していて、少し離《はな》れた場所で日課のお祈《いの》りを神に捧《ささ》げていた。  神様がいるらしい空を見上げると、今日は曇《くも》っている。少しだけ肌《はだ》寒かった。  神様といえばこちらも神様のホロは、しばらくいじっていた尻尾を放《ほう》り出すと自分の荷物の中から干しパンを取り出して、気前よくクラスに手|渡《わた》してくれた。  収穫《しゅうかく》を祝《いわ》う祭りの日でもないのに、小麦のパンだった。 「もらい物じゃからな。遠慮《えんりょ》は要《い》らぬ」  遠慮しろ、と言われたとしても手が勝手に受け取ってしまうだろう。  ただ、朝食は断固|拒否《きょひ》するアリエスのことが気になった。 「あれならとっくに説得ずみじゃ。ほれ」  と、お祈《いの》りを終えてこちらに戻《もど》ってきたアリエスに向けてパンを放《ほう》り投げる。  アリエスは慌《あわ》てて両手を出して、赤《あか》ん坊《ぼう》でも助けるかのように胸元《むなもと》で受け止めた。ホロの無作法さには、作法とは程《ほど》遠いクラスにも驚《おどろ》きだった。 「た、食べ物を投げるだなんて——」 「実った麦粒はやがて地に落ちるのが世の摂理《せつり》。ならば、それを粉にして焼いただけのパンを投げていけない理由があるかや」 「え……?」  思わず間抜《まぬ》けな声を出してしまったのはクラスだが、同様に鼻をつままれたような顔をしていたアリエスは、ほんの少し首をかしげる。それから、やがてどこかぼんやりとしたままうなずいた。  クラスもなにか騙《だま》されているような気がしたが、どういうわけか反論ができない。  年経た精霊《せいれい》にはどんな賢者《けんじゃ》でも勝てないという。 「こんな具合にの」  そうクラスに耳打ちして得意げに笑うホロの顔は、ちょっとだけ格好いいと思ったのだった。 「で、ぬしらの目的地は海だったかや」  普段《ふだん》から食べなれているのか、けちけちとパンをかじるクラスとは対照的にがつがつ食べながらホロは言った。 「い、一応は」 「あてどもない二人旅、かや」  笑われ、少し首をすくめる。 「そういうわけじゃないですけど……」 「放浪《ほうろう》の旅でないのなら、きちんと目的を定めておくことじゃな」  最後のひとかけらを口に放り込んで、ホロは言葉をそう締《し》めた。  放浪の旅、という言葉には胸が一瞬《いっしゅん》高鳴った。  馬に乗り、ボロのマントを羽織り、諸国を遍歴する憂《うれ》い顔《がお》の旅人の話を聞いたことがあるからだ。  ただ、そんなことを言うと屋敷《やしき》にいた他《ほか》の大人たちと同様に笑われそうだったので、黙《だま》っておくことにした。 「しかし、ぬしは起きるのも遅《おそ》ければ食べるのも遅いのか」 「え?」  ホロの言葉に自分の手元を見る。パンはまだ半分も食べ終わっていない。  すぐに、ホロが食べるのが早すぎるだけだと思ったが、視線をアリエスに向けて驚いた。 「こういう時に人は、ナイフとスプーンのいるような食事かや? と言うそうじゃな」  水|汲《く》みや家畜《かちく》の世話が山積みになっている時によく言われた言葉だ。  ナイフとスプーンを使う貴族の食事はゆっくりであればあるほどいい。  もちろん、クラスはスプーンなんて使ったこともない。  慌《あわ》てて小麦のパンを口に押し込んだ。  ちびちびとかじっていた時とは比べものにならないくらいに濃密《のうみつ》な小麦パンの味が口|一杯《いっぱい》に広がったものの、数回|噛《か》んで飲み込んだらそれっきり。  やはりもったいない気がしたが、食べてしまったものはしょうがない。  それに、いつも食事の遅《おそ》いアリエスがとっくに食べ終わっていたことに後押しされた。 「では、さっさと荷物をまとめて発《た》つとするかや。海はまだまだじゃが、次の町はそろそろじゃからな」  ホロの言葉でクラスは息つく間もなく片づけに取り掛《か》かる。  そして、ふと片づけをしているのが自分だけであることに気がついたが、食事が終わってからのお祈《いの》りの最中であるアリエスに声はかけられなかったし、ホロに手伝えと言えるわけもない。  ただ、一番|納得《なっとく》がいかなかったのは、ホロの分の荷物までクラスが背負わなければならなかったことだ。  ホロの荷物はクラスたちの貧相なものとは違《ちが》い、旅をするために必要なものが一式ぎっしりと詰《つ》まっていた。その中で最も重いのはぶどう酒の詰まっているという革袋《かわぶくろ》だ。 「自分じゃ背負えないって、ならどうやってここまで旅してきたんですか?」  さすがに理不尽《りふじん》だったのでそう抗議《こうぎ》したら、ホロは牙《きば》を覗《のぞ》かせ顔を近づけ、怪《あや》しげな笑《え》みを浮かべてこう言った。 「聞きたいかや?」  ごくりと固唾《かたず》を飲んでしまったのは色々な理由からだったが、どれも首を縦に振《ふ》る理由にはならなかった。  ホロは満足そうにうなずいて、尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らしながらさっさと歩き出してしまう。  その重圧から解放される代わりに重い荷物を背負うことになったクラスはため息を一つつき、仕方ないかと歩き出す。どの道この程度の荷物なら、もう二つ分くらい背負っても歩けないことはない。  そんなことを思っていると、ふと隣《となり》に気配を感じた。顔を上げれば、アリエスだった。 「手伝いましょうか?」  六日目にして初めての申し出だったが、前日に疲《つか》れすぎて倒《たお》れてしまったようなアリエスだ。  とてもその申し出は受けられずに、断った。 「ですが……」  と、心配よりも罪悪感にさいなまれるような顔をして食い下がるので、クラスは自分たちが元々持っていた食料|袋《ぶくろ》を差し出した。  これなら軽いし、ほとんど負担にもならないはずだ。 「なら、これを持ってて」  すぐにうなずいて、アリエスは袋を受け取った。  どういう風の吹《ふ》き回《まわ》しかはわからなかったが、気にかけてくれたのは正直に嬉《うれ》しかった。 「じゃ、行こう」  アリエスは袋の紐《ひも》を肩《かた》に掛《か》けると、歩き出したクラスの斜《なな》め後ろをおとなしくついてくる。  これもまた旅を始めてから初めてのことだったが、そんなことよりもホロがどんどん歩いていってしまうのでそのあとを追いかけるのに必死だった。  またアリエスが倒《たお》れないかとハラハラしたが、だんだん平地に近づいているのか丘《おか》の上《のぼ》り下《お》りも少なくなり、結局昼の休憩《きゅうけい》までに三つの小さな丘を越《こ》えることができた。  そして、その休憩の直前、ずっと黙《だま》って歩いていたアリエスが突然《とつぜん》口を開いたのだ。 「狼《オオカミ》から守ってくれたこと、お礼を言うのを忘れていました、ありがとうございます」  妙《みょう》に硬《かた》い口調と表情で言い出したのでびっくりしたが、どうやらそのことを切り出す頃合《ころあい》をずっと窺《うかが》っていたようだった。  こういうところは生真面目《きまじめ》なのかもしれない。 「ん、うん。別に、いいよ」  だから、そう答えるとアリエスははっきりと安堵《あんど》のため息をついて、力なく微笑《ほほえ》んだ。  それが妙《みょう》に可愛《かわい》くて、慌《あわ》てて「気にすることない」と言おうとしたのだが、ふと、少し離《はな》れた場所に腰《こし》を下ろしているホロのことが目に入ってやめた。  視線こそ別のところに向けられているが、その耳がこちらを向いていたのだ。 「と、とりあえずお昼にしよう」  その一瞬《いっしゅん》、ホロの横顔がつまらなそうなものに変わった気がした。  もしかしたら、自分の荷物を背負わせたのは、アリエスに礼を言わせるためだったのかもしれない。  余計なお世話だ、と思う。  別にそういうつもりでアリエスと旅をしているのではないのだから。  ただ、アリエスがきちんと礼を言ってくれたのは、単純に嬉しかった。  昼食を終えると、ホロはごろりと横になってしまった。  ぐびりぐびりとぶどう酒を飲んでいたので眠《ねむ》くなったのかもしれない。  あとで追いつくからと、毛布だけ受け取ってクラスたちを先に行かせた。  一行の歩く速度はどうしてもアリエスのそれに合わせなければならないから、多少クラスたちが先行したところでホロはすぐに追いつくだろう。クラスがため息をつくのは、クラスたちの旅に同行しようと言い出すのも唐突《とうとつ》なら、加わったあとの行動も勝手気ままなところに、だ。  もっとも、振《ふ》る舞《ま》ってもらった小麦パンの恩があるから、それだけでもホロのわがままを許すのに十分すぎる。  食べ物を食べさせてくれる人には、基本的に頭が上がらない。  そんなわけでまたアリエスとの二人旅になった。  しかし、午前中にクラスの側《そば》を離《はな》れず歩いていたのはやはり言いそびれた礼を言う頃合《ころあい》を窺《うかが》っていたためらしい。今度は今までどおりに少し歩いては立ち止まり、立ち止まっては物問いたげな目を向けてきた。  正直すぐに立ち止まるのにはイライラしたけれども、物問いたげな目を向けられるのは嫌《いや》じゃなかった。  もちろん、仕方ないな、という顔をして知りたがっていることを教えてあげたのだが。  そんな折《おり》、悲鳴とも取れそうな短い声が上がって、クラスは驚《おどろ》いて振り向いた。 「アリエス!?」  一瞬《いっしゅん》、一昨日の晩のことが脳裏をよぎってひやりとしたが、もしも狼《オオカミ》ならばホロがどうにかしてくれるはずだと思いなおした。  アリエスは少し離れたところで立ち尽《つ》くし、クラスのほうを振り向くと一点を指差した。  その表情は恐怖《きょうふ》に彩《いろど》られていて……と思っていたのだが、どうも違《ちが》う感じがした。  恐怖というよりも、困ったような顔をしていた。 「どうしたの」  悲鳴のようなものを聞いた瞬間には荷物を置いて走ろうと思ったものの、そこまで急を要する感じではなかったので、下ろしかけた荷物を背負いなおして駆《か》け寄った。  荷物を置いて離れると、一瞬前までは影《かげ》も形もなかった鷹《タカ》に持っていかれることがある。屋敷《やしき》の羊と馬を放牧《ほうぼく》した時に、昼食を持っていかれた苦い思い出が蘇《よみがえ》る。 「あ、あれ……」  クラスが近づくと、アリエスの細かい表情もわかった。  困ったような、ではなく、哀《かな》しそうな、心配しているような顔をしていた。  アリエスが示す指の先に視線を向ける。  その先には、たとえクラスたちに追いかけられたとしても逃《に》げきれる自信があるのだろう微妙《びみょう》な距離《きょり》を挟《はさ》んで、茶色の野兎《ノウサギ》がいた。 「兎? 兎がどうかしたの?」  兎を見るのが初めてだとしても、馬のように迫力《はくりょく》もないし、どちらかといえば可愛《かわい》らしいはずだ。  なぜこんなにも動揺《どうよう》しているのかと思うと、アリエスは固唾《かたず》を飲んでから、答えた。 「み、耳が……」  心配顔に哀しみのまざっている理由がすぐにわかって、思わず笑ってしまう。  耳が誰《だれ》かに引っ張られてああなったとでも思ったのだろう。 「兎《ウサギ》の耳は元々あんな感じだよ。長いから遠くの小さな音がよく聞こえるんだってさ」  クラスは一昨日の晩に地面を伝わる狼《オオカミ》の足音を聞いたが、家畜《かちく》小屋で眠《ねむ》っていた時は近くの巣穴《すあな》に住む野兎の足音をよく聞いた。  野兎はその足で地面を叩《たた》き、長い耳でその音を捉《とら》え狼や狐《キツネ》が来たことを仲間に知らせるのだ。 「誰かにひどい目に……あわされたわけでは、ないのですね?」 「違《ちが》うよ」  クラスが言うと、アリエスはようやくほっとしたようにため息をついた。 「けど、おいしそうだね、あれ」  もぐもぐと口を動かしながら油断なくずっとこちらを監視《かんし》している野兎は、毛並みもよく大きさも立派だ。丸焼きにして、腿《もも》の部分にかぶりついたら唇《くちびる》を目一杯《めいっぱい》火傷《やけど》するくらいに脂《あぶら》が滴《したた》りそうだった。  なので思わずそんなことを呟《つぶや》いたら、アリエスが信じられないといった顔でクラスのことを見つめていた。 「あ? あ、え、あ、いや、そう、あれ、あの野兎が食べてる草。草を食べてる様子がおいしそうだねって、そういう意味だよ?」  無理やり取り繕《つくろ》うと、人でなしを見るような目をしていたアリエスはそれでも信用してくれたらしく、表情を改めてくれた。 「あ、そうだったのですか……。ごめんなさい。私、てっきり……」 「うん、こちらこそ、驚《おどろ》かせてごめん」  驚いたのはクラスのほうだったが、アリエスに嫌《きら》われることだけはなんとか回避《かいひ》できたようだった。  しかし、だとすると、アリエスは兎を食べたことがないのだろうか、とクラスが思ったりしていると、不意にアリエスが口を開いた。 「世の中には」 「え?」 「あ、ごめんなさい。世の中には、本当にたくさんの知らないことがあるんですね、と」  遠くを見るような目をしてアリエスは言った。  その横顔は表情こそ穏《おだ》やかなものの、静かな感動が滲《にじ》み出ている。  アリエスは生まれてからずっと、石壁《いしかべ》に囲まれた小さい建物の中で暮らしていたという。  クラスの口が、勝手に動いていた。 「なら、もっと見ようよ」 「え?」 「遠くに行って。海に行って、色々見ようよ」  ホロは旅の目的を定めたほうがいいと言った。  世界をたくさん見て回ることを目的に旅をするのは、実に名案だと思った。  しかし、アリエスはしばしなんの反応も見せず、その言葉が石化の呪文《じゅもん》だったかのように動かなかったが、やがてふっと表情を緩《ゆる》めた。  それが妙《みょう》に大人びた笑顔《えがお》に見えて、クラスは少しびっくりした。 「そうですね。なら、早く歩かないと駄目《だめ》ですね」  そう言いながら笑った時には、いつものアリエスの笑顔だった。  クラスは狐《キツネ》につままれたように三度うなずき、それから、咳払《せきばら》いの代わりに荷物を背負いなおした。 「倒《たお》れない程度にね」  少し意地悪を言うと、アリエスは途端《とたん》に顎《あご》を引いて、フードの陰《かげ》に顔を隠《かく》してしまう。  それがとても子供っぽくて、ほっとした。 「じゃ、行こう」  歩き出すとアリエスはついてきた。  ホロと合流したのは、結局日が暮れかけてからのことだった。 「……かっ……!」  声にならない声が、意思とは関係なしに喉《のど》から出てしまった。  どれだけ平気なふりをしようとしても、どうしようもなかった。 「げほっ……かは……」 「くっく。まだ早かったかや」  咳《せ》き込むクラスの手から革袋《かわぶくろ》を取り上げて、ホロは意地悪そうに笑った。  その中に入っているのは漉《こ》したぶどう酒だという。  ぶどう酒、と聞いてずっと甘い飲み物を想像していたが、クラスの感想としては冷たいくせに熱い腐《くさ》った葡萄《ブドウ》の汁《しる》以外の何物でもなかった。 「背の高さの分、こっちのほうが大人だったようじゃな」  ホロは革袋の中身を一口飲んで、干し肉を咥《くわ》えた。  背の高さは関係ない、と思ったものの、反論もできない。  アリエスが平気な顔をして飲んだから自分も飲めると思ったら、つい今しがたの醜態《しゅうたい》だった。 「ぶどう酒は神の血です。これを飲めないのは神の教えが体にしみついていない証拠《しょうこ》です」  アリエスにはそう怒《おこ》られた。  神の教えというものを聞いたことがないので確かにそのとおりかもしれなかったが、アリエスにできて自分にできないというのは格好が悪い。  もう一度|挑戦《ちょうせん》したいとばかりに手を伸《の》ばしたら、ホロにその手を叩《たた》かれた。 「酒は楽しむものじゃ。見栄《みえ》と意地のために飲む酒は、また別にある」  精霊《せいれい》様にそう言われては引き下がるしかなかった。 「じゃが、この楽しみがわからぬとは気の毒じゃな」  その言葉はクラスにではなく、アリエスに向けられたもの。  アリエスは少し戸惑《とまど》うふうにしてから、クラスのほうをちらりと見た。  気を遣《つか》われるのが悔《くや》しかったので、目をそらした。 「ですが、一度神の福音《ふくいん》を得られるとみだりに神の名を呼んでしまうように、失敗も数多くあります」 「耳の痛い言葉じゃな」  ホロの狼《オオカミ》の耳が虫を払《はら》うように動いた。アリエスは微笑《ほほえ》み、それから膝《ひざ》の上で組んでいた手を恥《は》ずかしがるように組みなおした。 「一番の失敗は、ぶどう酒を作るために布で葡萄《ブドウ》を包《くる》んで吊《つ》るしておく時に、一|滴《てき》一滴|雫《しずく》が落ちるのを待っていられなくて……」 「手で絞《しぼ》って台無し、じゃろう? どういうわけか、ひどい味になる」  アリエスは目を閉じて、右|頬《ほお》に掌《てのひら》を当てる。  それから、一際《ひときわ》楽しそうな笑顔になった。 「ぶどう酒は神の血であり、神の血が神の身を削《けず》った恵《めぐ》みであるのなら、お前は神の体を傷つけてでも恵みを得ようとした愚《おろ》か者《もの》だ、と言われました」  クラスはアリエスがなにを言っているのかよくわからなかったが、ホロは最上の冗談《じょうだん》でも聞いているかのように楽しそうだった。  唯一《ゆいいつ》わかるといえば、アリエスはその時右頬を目一杯《めいっぱい》叩《たた》かれたのだろう、ということ。頬に当てられた手は、その時の痛みを思い出したかのように頬をさすっている。 「私はとても反省しました。こんなことは二度とすまいと」 「それで欲が収まればよいがな」  アリエスの片目が開かれてホロのほうを見て、ホロが小首をかしげると二人の口から漣《さざなみ》のような忍《しの》び笑いが漏《も》れた。 「私は教えを守り、神の恵《めぐ》みは与《あた》えられた分だけ頂くようにしました」 「一滴一滴、少しずつ落ちてくるのを指に受けてなめるのがこれまたな……」  ホロが殊更《ことさら》うまそうに言い、アリエスはまた目を閉じて笑った。  ただ、今はその右頬《みぎほお》に当てられた手は、叩《たた》かれた痛みを思い出しているのではなく、おいしいものを食べた時のことを思い出しているはずだった。  アリエスが見せる新しい仕草と表情に胸の奥がずきりとする。  一瞬《いっしゅん》驚《おどろ》いてしまったが、ぶどう酒を飲み下してからずっとずきずきしていたことを思い出して、なぜかほっとした。 「ま、こういう楽しみがわからぬとは、人生の損失といえような」  その言葉と共に二人の視線が向けられて、クラスは自分がとても幼い子供になったような気がして、また子供のようにそっぽを向いたのだった。  そんなやり取りをしているうちに日は暮れて、辺りは曇《くも》っているせいで本当の闇《やみ》に包まれた。  火はないので暗くなったら眠《ねむ》るしかない。  もちろんその組み合わせは昨日と同じで、違《ちが》うのはからかうことに飽《あ》きたのかホロが三人で寝《ね》ようと言わなかったことだけ。  それにほっとしつつも少し残念なような、寂《さび》しいような気もしたが、深く考えるのが怖《こわ》かったので毛布に包《くる》まって目を閉じた。  少しこめかみのあたりが痛いのは、きっとぶどう酒を飲んだせいに違いない。  歩けばすぐにへばり、なにかを見ては物問いたげな目を向けてくるアリエスが平気だったことを思い出すと、こめかみの痛さとは別に、ため息が出てしまう。  ふらふらと頼《たよ》りなく道を歩くアリエスの手は、自分が引っ張らないといけないのだから。  そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。  らしい、というのは、階段を踏《ふ》み外した時のような感覚と共に、はっと目が覚めたからだ。 「……む……」  唇《くちびる》の端《はし》の涎《よだれ》を無意識に毛布で拭《ふ》いてから、毛布の持ち主はホロだったことを思い出す。 「まずかったかな」  少しくらいなら大丈夫《だいじょうぶ》かと、残りは自分の服の袖《そで》で拭いて、横になったまま視線を少しだけ空に向けた。  ほんのわずかな時間だけうとうととしていたような気がしたが、空はいつの間にか雲が薄《うす》くなっていて、少しだけ月明かりが漏《も》れ出ていた。直後、軽く身震《みぶる》いして毛布をかき寄せたが、どうやら身震いの原因は寒さではないらしいことにすぐに気がついた。  もしも辺りが完全な真っ暗闇だったら、用を足したまま毛布に戻《もど》ってこれなくなるかもしれなかったので我慢《がまん》しただろうが、幸い少し目が利《き》くようになっていたからさっさと起き上がった。それに我慢して万が一寝ているうちにしてしまえば目も当てられない。ホロやアリエスの手前ということもあるし、なにより虫にたかられたりするのだ。  何年か前の夏に寝小便をしてひどい目に遭《あ》ったことを思い出して、もう一度震えた。  毛布からだいぶ離《はな》れたところまで行ったのは、単純に寝ている側《そば》でするのが嫌《いや》だったのと、アリエスたちの見えるところでするのが恥《は》ずかしかったから。  ここまで来れば十分、というところでようやく用を足した。 「ふう……」  至福の時を終え、満足のため息をついてくるりと身を翻《ひるがえ》す。  ただ、暗闇《くらやみ》と眠《ねむ》いのとでズボンの紐《ひも》がうまく結べない。横着して歩きながら手元に視線を向けてごそごそしていた。  そんな感じによたよたと寝床《ねどこ》に戻《もど》っている最中、クラスは用を足し終えたばかりでよかった、と胸中で呟《つぶや》くことになった。 「なんじゃ、全然気がついておらんかったのかや」  世界の輪郭《りんかく》が少しだけわかるといった暗闇の中、それだけ妙《みょう》にくっきり見えるホロの目が呆《あき》れるように細められた。 「ふ、梟《フクロウ》の化け物かと思いましたよ……」 「ふむ。わっちは狼《オオカミ》なんじゃがな」  笑えないでいると、足を踏《ふ》まれた。  クラスは抗議《こうぎ》しようか迷ったが、ホロがさっさと歩き出したので諦《あきら》めることにした。  そして、少し距離《きょり》が開くと振《ふ》り向いてついてくるように手招きしてきた。 「な、なんですか?」  少し歩いたところでホロは立ち止まり、腰《こし》を下ろすと隣《となり》に座れとばかりに手で示すのでクラスはそれに従う。隣に座ると、ホロとの身長はほとんど同じなので耳の分だけクラスのほうが低かった。 「ちょっと聞きたいことがあっての」 「聞きたい、こと、ですか」  わざわざこんな夜更《よふ》けに改まってなんだろう、と思っていると、ホロはゆっくりと口を開いた。 「ぬしがしばらく仕えていたアンセオという貴族のことじゃがな」 「領主様?」 「うむ。そやつ、死んだというのは間違《まちが》いのないことなのかや」  ホロに自分たちの旅のいきさつを話した時、ホロが領主様の話になにか思うところがあったような素振りを見せたことを思い出した。  もしかしたら友達だったのだろうか。 「間違いないか、と言われたら、その、わからないです」  領主様の弟と名乗る男が家臣《かしん》を引き連れてやってくるなりそう宣言しただけなのだから。 「ふむ……じゃが、話に聞くとよく遠出するのが趣味《しゅみ》だったらしいの」 「あ、はい、それは。しばらくすると変な置物や怪《あや》しげな人を連れて帰ってきたりしていましたよ」  その変わった趣味《しゅみ》の最たるものがアリエスのいた石造りの建物だ、というのが使用人たちの統一見解だ。 「ということは、よくて旅先での行方《ゆくえ》不明か。望み薄《うす》じゃなあ」  ホロはため息をつきながら言うなり、ごろんとその場に寝《ね》転んでしまった。  辺りには虫の音すらなく、ホロがわさりと尻尾《しっぽ》を払《はら》った音だけが響《ひび》いた。 「お知り合い、だったんですか?」 「わっちが? いや、そういうわけではない」  体を横にして、肘《ひじ》をついて顔を支える。  ぼんやりとした月明かりの下で見るそのくつろいだ様からは、野宿に慣れていることが見て取れる。ホロはしばしその姿勢のままどこを見るともなしに見て、クラスもそれ以上聞けず黙《だま》っていた。  沈黙《ちんもく》を破ったのはホロのほうだった。 「わっちが聞いた話ではな、アンセオは不老長寿《ふろうちょうじゅ》の秘薬を求めていたらしい」 「ふ、ふろう、ちょ……?」 「不老長寿。老いずに永遠に若いままということじゃ」  クラスの口からは「はあ」としか言葉が出ない。そんなことを求めてどうするのだろうか。 「くっく。生まれたばかりのぬしにはそりゃあ想像もつかぬじゃろうな」  むっとクラスが顎《あご》を引くと、ホロは視線を向けてきた。 「人は他《ほか》の生き物に比べれば幾分《いくぶん》長生きじゃがな、それでも老いさらばえるのはあっという間じゃ。それをどうにか免《まぬが》れたい、という気持ちはわっちにももちろんわからぬでもない」  やっぱりクラスには想像ができなかったが、ふと気がついたことがあった。 「ホロさんも、その方法を手に入れるために?」  しかし、考えなしに言った直後、失言だったと気がついた。 「あ、ホ、ホロさんはそのままでもずっと若くて綺麗《きれい》なままだと思い、ますけど……」  慌《あわ》てて言い繕《つくろ》うと、ホロはちょっと驚《おどろ》いたふうにしてから、両の牙《きば》を見せて声なく笑った。 「ぬしのような子供に気を遣《つか》われてはこそばゆくてたまらぬ。もちろん、わっちの美しさは永遠じゃがな」  ふん、と鼻を鳴らして尻尾をわさわさいわせているあたり、本気で得意がっているようだ。  なんにせよ、とりあえず怒《おこ》り出さなくてよかったとほっとした。 「まあ、ぬしの言葉も半分当たっておる」 「え?」 「もっとも、その秘薬を使うのはわっちにではありんせんがな」  どことなく恥《は》ずかしそうな、自嘲《じちょう》するような笑《え》みを浮かべながらホロが言ったので、「それでは誰《だれ》に?」という質問はすんでのところで飲み込んだ。 「で、もう一つ」  ホロはちらりと後ろを振《ふ》り返って、続けた。 「アリエスは生まれた時からずっと同じ建物の中に住んでおったというのは本当かや」  その話はホロにしていないので、おそらく昨晩共に寝《ね》た時に聞いたのだろうが、なぜそんなことを確認《かくにん》してくるのかクラスにはちょっと見当がつかない。  ただ、詮索《せんさく》は別にして、自分の知るところを答えた。 「だと、思いますよ。少なくとも、周りの大人の使用人たちは皆《みな》そう言っていました」 「ふーん」  ホロは興味があるのかないのかよくわからない態度でうなずき、しばし遠くを見つめたままじっとしていた。 「どうかしました?」  クラスが我慢《がまん》できずに聞くと、ホロはやはりなんでもないとばかりに首を横に振った。 「ま、よい。そんなことより、アンセオが死んでおるといよいよ行く当てがなくなってしまいんす。軽い冗談《じょうだん》のつもりじゃったが、これはぬしらの旅に長いことついていかぬとならんな」 「……」  幸い声は上げなかったが、アリエスとの二人旅のほうが気楽でいいのに、などと思ってしまったことは顔に出ていたらしい。  ホロが恨《うら》めしげに、片|眉《まゆ》をつり上げていた。 「確かにわっちゃあ邪魔《じゃま》なこぶじゃがな、露骨《ろこつ》に顔に出されたら傷つきんす」 「い、いや、そんなわけじゃ」 「なら、ずっとついていってもいいんじゃな?」  にっこりと笑われてそう訊《たず》ねられたら、首を横に振ることなんてとてもできない。  それに、意地悪なホロもこんなふうに笑っている分にはアリエスに負けず劣《おと》らず可愛《かわい》いのだ。  そんなわけでクラスがゆっくりうなずくと、途端《とたん》にホロはけらけらと笑い出した。 「そんなことではアリエスに頬《ほ》っぺた張り飛ばされても文句は言えぬな」  輝《かがや》くようだった笑顔《えがお》が、にぃーっと意地悪な笑みに変わる。  精霊《せいれい》様は、人の心が読めるらしい。 「んふふ。ま、素直《すなお》なのは子供の特権じゃからな。両手に花を持ちたがるたわけぶりも、わっちらお姉さんは優《やさ》しく許してやろう」  もう言い返すのも面倒《めんどう》で、クラスは視線を月へと向けたのだった。 「しかし、羨《うらや》ましいの」 「?」  ホロは独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いてから体を起こし、胡坐《あぐら》をかく。  横顔が少ししか見えないのでよくわからなかったが、どこか遠くを見ているようだ。  しばしそのまま黙《だま》っていたホロは、ふと振《ふ》り返ってこう言った。 「例えば今ここで狼《オオカミ》たちが襲《おそ》ってきたら、ぬしはどうするかや」  意外な質問に意表を突《つ》かれつつも、精霊《せいれい》たるホロがいるのだから恐《おそ》れることなどなにもない。 「えっと、ホロさんの邪魔《じゃま》にならないように……」  だからすぐにそう答えると、ホロは困ったように笑ってから、ごろりと横になった。  クラスが思わず体を引いてしまったのは、ホロがクラスの膝《ひざ》の上に頭を載《の》せたからだ。 「実に合理的な答えじゃがな、打算的な雄《おす》ほど嫌《きら》われるものはありんせん」 「は、はあ……」 「はあではない。そこはな、我が身に代えて貴女《あなた》の身をお守りします、くらいのことを言うものじゃ。ほれ」  と、足を叩《たた》かれたので、なにかと思えば、その台詞《せりふ》を言えということらしい。  そんな台詞、一人で言ったって恥《は》ずかしいのに、間近にはホロの視線がある。  ただ、言わないと怒《おこ》られそうな雰囲気《ふんいき》だし、言うまで許してくれなさそうだった。  それでもしばらくためらっていたのだが、ホロがわざとらしく咳払《せきばら》いをしたのでついに覚悟《かくご》を決めた。クラスは冷たい水に飛び込む前のように深呼吸をして、顎《あご》を上げて目を閉じて口を開いた。 「わ……我が身に代えて」 「んむ」 「……代えて……」 「んむ?」 「て……」  そして、これだけ言って頭の中が真っ白になってしまった。  そのまま言葉をつなげずにいると、ホロが「やれやれ」と呟いて体を起こした。 「貴女の身を」 「あ、貴女の身を、お、お守り……します」  言い終えてみると短い台詞なのに、長い長い唄《うた》でも歌わされたようだった。  しかし、そんな台詞を言わされたまま、上げた顎は下げられず、閉じた瞼《まぶた》は開けられない。  すぐ側《そば》でホロがこちらを見ていることが、頬《ほお》になにかが突《つ》き刺《さ》さるような感覚からわかりすぎるほどにわかったからだ。 「くふ。まあ、こんなもんじゃろ」  ホロがそう言って視線をそらしてくれたので、クラスはようやく顎を下げて、水の中から顔を出したように大きく息をついた。 「じゃが、そんなことでは大事な次の段階へ行くのは難しいの」 「へ、え、次?」 「うむ」  ホロの返事と、行動は一緒《いっしょ》だった。  その直後、クラスは自分が生きながらにして死んでしまったと思った。  身動き一つ取れないどころか、瞬《まばた》きも呼吸すらもできなくなっていたのだ。 「くふっ」  それがホロの口から漏《も》れ出た笑い声だったのか、それともそっと耳に入れられた細い指だったのか区別がつかなかった。  わかっていることは、ホロが自分の首を抱《だ》きかかえるように両|腕《うで》を回していることと、肩《かた》の上にちょこんと顔を載《の》せていること。  しばらくそのまま沈黙《ちんもく》が続く。  左耳のあたりが定期的に痺《しび》れるような感じに襲《おそ》われたのは、きっとホロの吐息《といき》のせいだったのだろうとはあとで気がついたこと。  なんでこんなことをするのか、ということは思いつかない。  ただただ、苦しいばかりの夢見|心地《ごこち》だった。 「このまま噛《か》みついたら死んでしまいそうじゃな?」  泥《どろ》の中に手を突っ込むように、ずぶりと自分の頭に直接入りこんでくるホロの言葉。  それでも、冗談《じょうだん》めかした調子なのにクラスにはそれがとても冗談だと思えなくて、ようやく首を回すことができた。  そして、首を回した先にあったのは、満月のように綺麗《きれい》で繊細《せんさい》な琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》と、それだけ異様に白い尖《とが》った牙《きば》。  それに、くらくらしそうなほどの、甘い匂《にお》い。  今にも反転しそうな視界の中で、ホロが真っ白い牙をもっとよく見せるように唇《くちびる》をつり上げたのが異様にはっきりとわかった。  この時、クラスは、自分はホロに食べられるのだと思った。  ゆっくりとこちらの口に近づいてくるホロの牙を見ながら、それもいいかもしれない、と痺《しび》れた頭の中で誰《だれ》かが呟《つぶや》く。  眠気《ねむけ》に似た感覚がせっかく開けていた瞼《まぶた》をゆっくりと閉じさせる。  残ったのはホロの甘い匂いだけ。  しかし。 「……」  結局、ホロはクラスのことを食べなかった。 「おっと、このまま食べてはいかんな」  突然《とつぜん》肩《かた》から顔を離《はな》し、うっかりしていたとばかりにそう言った。  その瞬間《しゅんかん》、薄《うす》い皮で何重にも覆《おお》われた夢の泡《あわ》がぱちんと弾《はじ》けたような気がした。  いや、実際に弾けてしまったのだ。  しばらく呆然《ぼうぜん》とし、滅多《めった》に食べられない好物のお菓子《かし》を地面に落としてしまったかのようにホロの顔を見つめていた。  ホロの顔が遠ざかったことに胸が張り裂《さ》けそうになったのは、そのすぐあとのことだった。 「んふふふ。そんな顔をされると続きをしたくなってしまうじゃろうが」  意地悪そうに笑うホロに人差し指で鼻を突《つ》つかれて、それが冗談だったのだとわかる。  クラスはようやく気がついた。  自分は、弄《もてあそ》ばれていたのだ。 「怒《おこ》るでない。続きはな、ぬしがあれからわっちを守ってくれたら、してやらぬでもない」 「え?」  よく躾《しつ》けられた犬のように、クラスはホロが顎《あご》をしゃくった方向を向いてしまった。 「あっ」  そして、その瞬間、クラスの口は悲鳴の形のまま凍《こお》りついた。 「ア、アリエッ……!」  その先は言葉にならない。  視線の先にあったのは、少し離れた場所でぐっすりと寝《ね》ていたはずのアリエスの姿。  体を少しだけ起こし、物陰《ものかげ》に隠《かく》れているつもりなのか毛布代わりのローブで顔を半分隠している。そんなローブの陰から向けられる、なんともいえない、表情の読めない無色の視線。  ぶわりと背中に冷たい汗《あせ》が噴《ふ》き出るのがわかった直後、クラスと目が合ったアリエスは野兎《ノウサギ》もかくやといった具合に顔を伏《ふ》せてしまった。  なにかものすごくまずいところを見られたような気がする。いや、実際にまずいはずだ。  なにがまずいのかは全然わからなかったが、クラスの頭の中では必死に言い訳が組み上げられていく。  直後、すぐ側《そば》のホロが声を殺し、笑い出した。  未《いま》だ解かれていないホロの両|腕《うで》を通して伝わってくるそのくつくつという小さな音は、兎が危険を知らせる足音にそっくりだった。 「恋路は障害の多いほうがよく燃えると聞いておる」 「べ、別にそんなんじゃ」 「ならば動揺《どうよう》する必要などありんせん」  あっさりと言葉を封《ふう》じられてしまう。  恨《うら》めしげに目の前のホロを睨《にら》むと、そんなきつい視線も春の日差しのようにしか思っていない感じだった。 「いかんな。わっちゃあ可愛《かわい》い仔《こ》を見るとついいじめてしまいんす」  言いながらホロはあっさりと腕を解き、「んー」と伸《の》びをして、尻尾《しっぽ》をわっさわっさと大きめに揺《ゆ》らした。  散々遊び倒《たお》した犬っころみたいだと思ったが、その連想はきっと外れていないだろう。  自分は、弄《もてあそ》ばれたのだから。 「いつまでも物欲しそうな顔をしておるでない」  きっと聞き耳を立てているだろうアリエスに聞こえないようにホロは囁《ささや》き、首をかしげながらやはり小さい声で続けた。 「じゃが、これでよくわかったじゃろう?」 「え?」  よくわからず聞き返すと、ホロは怒《おこ》ったような顔をしたが、「まあよい」と首を振《ふ》った。 「これだけは言っておく。ぬしらに牙《きば》を向けてくるのは狼《オオカミ》だけではありんせん。ましてや、アリエスは若い娘《むすめ》じゃからな」 「え?」 「ぬしには駄目なところと同じくらい愛嬌《あいきょう》がある。ならばあとは勇気があればよい」  最後の言葉は、ホロが立ち上がりすれ違《ちが》いざまにクラスの頭をくしゃくしゃと撫《な》でながらだ。  つい邪険《じゃけん》に振り払《はら》ってしまったが、ホロは楽しそうに笑ってあっさりと寝床《ねどこ》へと戻《もど》っていった。  その動きがあまりにあっさりしすぎていて、つい今しがたまでのやり取りが本当にちょっとしたうたた寝《ね》の合間に見た夢のように思われてきた。  それに、最後の言葉も一体なんのことなのか判然としないままホロの背中を見送った。  クラスがそのままうつむいてしまったのは、そんなもろもろのことよりもとりあえずホロという狼《オオカミ》から解放されたことに対して安堵《あんど》のため息が出てしまったから。  そして、くしゃくしゃにされた髪《かみ》の毛を戻《もど》そうと手を伸《の》ばしかけてはたと止めた。  それが夢の続きを示す道しるべのようで、直すのがもったいない気がしたのだ。  ただ、ためらったのも一瞬《いっしゅん》だった。  ホロが寝床《ねどこ》に戻るやなにやらこそこそ話しているらしい二人のほうを向いた直後、アリエスとほんのわずかな時間だけ目が合ったからだ。  くしゃくしゃの髪の毛のままでいるのは悪いことのような気がした。  クラスは髪を直して、もう一度ため息をつく。  ホロとアリエスはしばらく囁《ささや》き合っていたが、やがて静かになった。  それを機に、クラスも寝床に戻《もど》った。  なんだかどっと疲《つか》れた気がするし、なにもかもが唐突《とうとつ》で訳がわからなかった。  それでも、と毛布の中で呟《つぶや》いた。  わかったことが一つだけある。  同じ甘い匂《にお》いでも、ホロとアリエスでは全然|違《ちが》うものだった。  どちらが好きかと問われれば……。  クラスはそう自問して、答えを出す前に自分の頭を殴《なぐ》った。  夜は更《ふ》けていく。  大きなため息で、毛布が吹《ふ》き飛びそうだった。  翌日は妙《みょう》な罪悪感からアリエスのことをなかなか見られなかった。  ただ、ホロがうまく言い繕《つくろ》ってくれていたのか、アリエスはお祈《いの》りをすませるとなんのためらいやぎこちなさもなく、実にいつもどおりに挨拶《あいさつ》してきてくれた。  それに安堵《あんど》したというのはもちろん正直なところだったが、どういうわけか胸のうちには寂《さび》しさが残る。  これではまるで、アリエスが誤解して不機嫌《ふきげん》になってくれるのを待っていたようなものだと、そんなことに気がついてびっくりしてしまう。  慌《あわ》てて、別にアリエスの気を惹《ひ》きたいわけではないと自分に言い訳したりしてますます自分が間抜《まぬ》けな男に思えてきた。  それでも、とふと思う。  試《ため》しにホロとアリエスを入れ替《か》えてみてそういう状況《じょうきょう》になった時のことを想像してみる。  想像の中で、ホロは妙《みょう》に可愛《かわい》かった。 「……なるほど」  なんだかひとつ賢《かしこ》くなったような気がして一人うなずくと、いきなり頭を小突《こづ》かれて我に返った。  顔を上げると、不機嫌《ふきげん》そうなホロの顔があった。 「ほれ、さっさと食わぬか。またぬしが最後じゃ」  突然《とつぜん》小突かれた驚《おどろ》きもあったが、同時に頭の中身も見られていたんじゃないのかと、そっちのほうが原因で慌《あわ》ててしまう。  ホロがまた振《ふ》る舞《ま》ってくれた小麦パンを口に詰《つ》め込んで、秘密《ひみつ》を心の奥深くに押し込むようにパンを飲み下した。 「早飯《はやめし》も芸のうちじゃな」  昨日のことなど嘘《うそ》のように興味なさそうにホロが呟《つぶや》く。  それが少し寂《さび》しかったが、どうやら頭の中身は見られていなかったようだと安堵《あんど》のため息をついたのだった。  それからまたクラスが全員分の荷物を背負い、一行は歩き出した。  今日はホロとアリエスが並んで歩き、その前を荷物を背負ったクラスが歩く形になった。  後ろから聞こえてくる楽しそうな会話に耳を傾《かたむ》けると、どうやらずっと酒の話をしているらしい。つい先ほどまではぶどう酒で盛り上がり、今はパンから造られる琥珀《こはく》色の酒の話になっている。  なんにせよぶどう酒を前に敗北を喫《きっ》してしまったクラスには面白《おもしろ》くもなんともない話だ。  木苺《キイチゴ》をどろどろに煮《に》て水と蜂蜜《はちみつ》で割ったジュースのほうが何倍もうまいと思う。  ただ、時折聞こえてくる、小鳥がさえずるような笑い声のほうを振り向いてそんなことを言う度胸はクラスにはない。  哀《あわ》れむような同情の笑《え》みを向けられそうだった。  どことなく仲間はずれにされている感じにふてくされつつ先頭を歩いていると、ちょくちょく剥《む》き出しの岩や木立《こだち》が目につくようになってきた。  辺りも草原から草むらといった感じになり始め、丘《おか》からはついに黒々とした森の姿が見えた。  森は正面から右手のほうにずっと広がっていて、かなり遠くにだが小さい山も見える。  対して左手には背の高い草が生い茂《しげ》り、よくよく見ると水面がそこかしこに顔を覗《のぞ》かせている。どうやら沼地になっているらしかった。 「よい眺《なが》めじゃな」  クラスの隣《となり》に立ったホロが言い、さらにその隣ではアリエスが口に手を当てて驚いていた。  そういえば、と、丘の上には何度も上《のぼ》ってきたもののこういった景色《けしき》は初めてだったことに気がついた。 「いい景色《けしき》でしょ?」  驚《おどろ》くアリエスに向かってクラスがちょっと得意げに言葉を投げると、間にいたホロに脇腹《わきばら》を小突《こづ》かれた。  そんなホロとクラスをよそに、景色に見入っていたアリエスは遠くを見たまま控《ひか》えめに言った。 「あの、あそこに見えるのが……海、ですか?」  そう言って指差したのは沼《ぬま》の方向。  ホロが答えるかとも思ったが、ホロはクラスのほうを向いて楽しそうな笑《え》みを浮かべたのでクラスが答えた。 「違《ちが》うよ。あれは沼」 「沼?」 「池みたいなもの。池よりも浅かったり泥《どろ》があったり」  アリエスはなるほどとうなずく。沼といえばナマズで、ぜひともその奇妙《きみょう》な魚をアリエスに見せて驚かせたいと思ったが、アリエスはそんなクラスの思いをよそに「では」と続ける。 「海もこのようなものなのでしょうか」 「海はもっともっと大きいものだよ」  実際は見たことなどないのだが、話には聞いたことがある。  だからクラスが両手で大きく輪を描《えが》くように説明すると、ひょいとホロが口を挟《はさ》んだ。 「それはどのくらい大きいのかや」 「え」  と、言葉に詰《つ》まったが、アリエスが沼から視線をこちらに戻《もど》して物問いたげな目を向けてくる。  クラスは少し口ごもってから、聞いた話をそのまま言った。 「ずっと、ずっと、右を見ても左を見ても、もちろんまっすぐ見てもず————っと海しか見えないくらい大きいんだよ」  その説明にアリエスは感嘆《かんたん》のため息のようなものを漏《も》らし、ホロはホロでクラスが海を見たことなどないと気がついているらしく、にたにたと笑っていた。  幸いなことにそれ以上海のことは聞かれず、「早く見たいですね」とアリエスは笑顔で言った。クラスは不意に見せられたその笑顔にぼんやりとうなずいてしまい、直後に意地悪なホロに足を踏《ふ》まれたのだった。 「で、あの森と沼の間を抜《ぬ》けていくとじゃな、町までもうすぐなんじゃが」  そんなやり取りのあとにクラスたちはそこで昼食を取ることにして、ホロは干し肉をかじりながらそう説明した。  ただ、含《ふく》みのある言い方だったので、クラスは聞き返した。 「道でも悪いんですか?」 「いや、わっちゃあ町からこっちに来る時に通ったがそれほどでもない。森の中を通ったほうが断然近道じゃが、そっちは危ない。じゃが、わっちが思ったのは道ではなく、その先のことじゃ」 「先のこと?」 「うむ。端的《たんてき》に言えば、ぬしらの懐《ふところ》具合じゃな」  クラスはそう言われて、一切れもらった干し肉を咥《くわ》えながら自分の荷物を解いて中に手を突《つ》っ込んだ。  屋敷《やしき》を訪《おとず》れた旅人などからもらった駄賃《だちん》が入っている。  ごそごそと中を引っ掻《か》き回して、ようやく五枚の硬貨《こうか》を取り出した。  どれも親指の頭より少し大きく、うち三枚はところどころが緑色になった真っ黒いやつで、残る二枚は赤い錆《さび》の浮いている灰色のもの。  どれも長いことクラスの宝物だった。 「ほう、それが全財産かや」  ホロがちょっと驚《おどろ》いたように言ったので、クラスは誇《ほこ》らしげにうなずいた。  これだけあれば半年は無理でも、三ヶ月くらいなら十分に暮らせるだろう。 「これは、お金、ですか?」  アリエスはそんなことを言いながらクラスの手の上にある貨幣《かへい》を覗《のぞ》き込む。 「そうだよ」 「お金は諸悪の根源と学びました。ですが、思っていたものとは全然|違《ちが》います」  一体どんなものを想像していたのか考えるとまたそれも面白《おもしろ》そうだった。  ただ、次に聞こえてきたホロの言葉は一瞬《いっしゅん》理解ができなかった。 「これじゃあパンが一切れ買えるかどうかじゃないかや」  間をあけて、「え?」と聞き返した。 「わっちも金というものはよくわからぬ。革《かわ》なら良し悪しがすぐにわかるから面倒《めんどう》がないんじゃがな……」  ホロは言いながら自分の荷物をクラスと同じように引っ掻き回し、中から小さな巾着《きんちゃく》を取り出した。  白と紫《むらさき》の糸を編んで作られた紐《ひも》を解《ほど》き、中身をざらっと手の上に出す。  それを見た時の衝撃《しょうげき》といったら、まさしく頭を殴《なぐ》られたようなものだった。 「たしかこれでパンが一|斤《きん》買えたの。この白いやつだと、たくさん買える。どうじゃ、わっちも詳《くわ》しいことはわからぬが、一目でその差がわかるじゃろう?」  その言葉の意味が痛いほどわかる。  ホロの掌《てのひら》の上にあるのは、驚《おどろ》くほど細かく模様の刻まれた、大きくて肉厚の貨幣《かへい》なのだ。  それも、パンが一|斤《きん》買えるというやつは綺麗《きれい》な赤茶色に輝《かがや》き、たくさん買えるというやつは鈍《にぶ》い白がとても勇ましい。  クラスは自分の手の上のものに目をやって、そのみすぼらしさに思わず泣きそうになってしまった。 「町という場所はただそこにいるだけで金がかかりんす。ましてや、ぬしらは旅を続けるためにパンを買わねばならぬ。さてどうするのかやと思っての」  ホロは巾着《きんちゃく》の中に貨幣を入れなおしながらそう言った。  その音もちゃらちゃらというささやかなものではなく、じゃらりという力強い音だ。  世界の広さを知った時のように、怒《いか》りに似た哀《かな》しさが胸|一杯《いっぱい》に広がっていく。  ホロが悪いわけではないのに、ホロが悪人のように思えてきてなにかを言い返そうとするが言葉が出ない。  それでもなんとか言葉を出そうとして代わりに涙《なみだ》が出てきそうになった頃《ころ》、すいっと言葉を挟《はさ》んだ者がいた。 「パンとは労働の果実《かじつ》です。働けば大丈夫《だいじょうぶ》です」  そう言ってからの笑顔《えがお》はクラスのほうを向いて。  気遣《きづか》われている。  かっと顔が熱くなるが、慌《あわ》てて乱暴に目尻《めじり》を拭《ぬぐ》ってそうだと思いなおした。 「そ、そうです。働くので大丈夫ですよ」 「ふむ」  ホロは笑うでもなくうなずいて、それから牙《きば》を剥《む》いて干し肉を噛《か》み切って言った。 「例えば一日働いて、一日分の食料しか買えなかったらどうするかや?」 「た、たくさん働けば大丈夫ですよ」  ちょっと自信がなかったが、アリエスを盗《ぬす》み見るとアリエスもうなずいているので勇気づけられてホロに視線を戻《もど》す。 「たくさん働けば? ふむ。それはもっともじゃが、果たしてそれほど仕事があるかどうか」  これはホロのからかいだ。  そう直感して口を開こうとして、ホロの言葉に遮《さえぎ》られた。 「町には仕事にあぶれておる大人がたくさんおる。そこに子供であるぬしらが行って、うまく仕事にありつけるかや」  口が、「え」という形のまま固まる。 「力もなく、技術もなく、誰《だれ》か知り合いがおるわけでもなく。人の世では文字が読めればだいぶ違《ちが》うらしいが……」  もちろん、クラスは字など読めないが、アリエスが読めることを思い出した。 「アリエスは確か読めるよね?」  クラスがそう訊《たず》ねると、アリエスはうっすら微笑《ほほえ》みながらうなずいた。  なにも問題はない。  そう思った直後、ホロがため息まじりにこう言った。 「それで、アリエスがせっせと働く間、クラス君はどうしているのかや?」  ぐさり、と胸に槍《やり》が刺《さ》さるような感じがした。 「え? それは、別に待っていていただければ」 「だ、そうじゃが」  細められたホロの目が向けられ、クラスは下唇《したくちびる》を噛《か》んでしまう。  そんな情けないこと、できるわけがない。 「それに、文字を書いたり読んだりする仕事もそうそうあるとは思えぬしの」  手に持っていた干し肉でくるくると円を描《えが》いて、ぴたりと止めると噛み切られて尖《とが》っているところで頬《ほお》を掻《か》いた。クラスはそれを見ながら、ホロはなんで突然《とつぜん》こんなことを言い出すのかと、なかば反感を持って睨《にら》みつける。  これではまるで、旅をやめろと言っているようなものではないか。 「で、じゃな。わっちは思いんす」  なにを、と苦々しく胸中で呟《つぶや》く。  ホロは赤みがかった綺麗《きれい》な琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》をすいと遠くに向けた。 「ぬしらはこのあたりで引き返したらどうじゃ」  意表を突《つ》かれて、返事ができない間にホロの視線が遠くから戻《もど》ってくる。 「ここからなら、そこの沼《ぬま》で水を汲《く》んで、わっちの食料を持っていけば引き返せる。無理をして進んでも益があるとは思えぬ。それに、屋敷《やしき》を追い出されたといってもぬしらはまだ子供じゃ。情に訴《うった》えれば二人くらいどうにでもなるじゃろう」  あまりにも理解できてしまうその提案に、クラスはそれでもなにか怒《いか》りを感じて首を縦には振《ふ》れなかった。  そして、その原因にはすぐ気がついた。  アリエスとの約束。  二人で、海を見に行くのだ。 「なにを考えておるか一目でよくわかるの」  しかし、ホロはそう言って呆《あき》れ笑った。 「先立つものがなく、またその当てもなく無理して先に進み、食料が尽《つ》き、金も仕事もなくなった時ぬしらはどうするのかや。周りに慈悲《じひ》を乞《こ》うのかや? 道に座ってぼろをまとい、垢《あか》と泥《どろ》にまみれるのかや?」  ホロの言うことはなぜかわかる。それがきっと正しいことなのだとなぜかよくわかる。  それでも、このまま帰るなんていう選択肢《せんたくし》はどうしても採《と》りたくなかった。 「なかなか強情《ごうじょう》じゃな」  ホロがそう言った直後だった。 「あの」  静かにホロの話を聞いていたアリエスが口を開いた。 「私も、できることなら海を見てみたいです。もっと色々世界を見たいです」  クラスは救われた気分になってアリエスを振《ふ》り向く。  ホロは半分閉じた目でそれを眺《なが》め、「で?」と言わんばかりだ。 「ですが、私は世の中のことを知りません。ホロさんの仰《おっしゃ》ることを一つも否定できません。それに、私は世の中にはとても辛《つら》いことがたくさんあると学んできました」 「ふむ」  ホロが満足げにうなずく。  クラスは音がしそうなほど落胆《らくたん》した。  世界を色々見て回ろうと言った約束はその程度だったのか、と。  しかし、アリエスはそのあと言葉を続けず、突然《とつぜん》フードを下ろすと、もそもそと首元をいじくり出した。 「アリエス?」  クラスが訊《たず》ねるのも気にせず、アリエスはやがて鎖《くさり》のようなものを掴《つか》み、そろりとそれを引き上げた。  そして服の下から出てきたのは、ウズラの卵くらいの緑色の石だった。 「そ、それって……」  鎖にぶら下がり、時折日の光を反射して輝《かがや》く石を見てクラスは息を飲む。  一度、領主様が屋敷《やしき》に招いたことのあるどこかの貴族の女の人がごてごてと身に着けていたものとそっくりだった。  年上の、特に女の使用人たちから聞いてクラスだって知っている。  それ一つで村が買えるという、宝石だ。 「これはとても高価なものだそうですが、これでパンは買えないでしょうか」  クラスはその言葉を聞くや、ざまあみろという気分になってホロのほうを向いた。  アリエスとの旅はまったく無理ではない。  そう言い返されて言葉に詰《つ》まるホロの顔を予想していたら、視線の先にあったのは意外な表情だった。 「なんじゃ。それは出してもよいものだったのかや」 「え」  というのはクラスとアリエスの二人の声。 「寝《ね》ておる時にすぐ気がついたが……なんじゃ、ぬしは気がついておらんかったのかや」  ホロに話を振《ふ》られて、クラスは慌《あわ》ててうなずく。  全然気がつかなかった。 「もふもふするのに夢中だったかや」 「そ、そんなことしてません!」  にやにやと意地悪な笑《え》みと共にそう言われて、即座《そくざ》に怒鳴《どな》り返した。 「ま、それはともかく、それを手放してもよいのなら、しばらく安泰《あんたい》じゃろうな」 「なら」  アリエスは言い、しかしホロはそれを遮《さえぎ》った。 「じゃが、本当にいいのかや。特別な石はどの時代のどの場所でも特別な意味を持つ。誰《だれ》かの形見だったりするのであれば、考えなおしたほうがよいと思うんじゃがな」 「いえ、これをどなたからもらったかはわからないんです。ただ、困った時があればきっと助けになるでしょうと司祭様は仰《おっしゃ》っていました。そして、今がその困った時だと思います」  アリエスの答えに、ホロは鼻の頭を掻《か》いてから、考えながら喋《しゃべ》るようにゆっくりと言った。 「誰からもらったかわからない? その石、台座のところに字が書いてあるが、そこにはなんとあるのかや?」 「私の名前です」  ぴん、とホロの耳が立った。 「名前だけ?」 「いえ、名前と、短い文章です。えっと……、我が娘《むすめ》、アリエスに贈《おく》る」  ホロが一瞬《いっしゅん》目を見開き、鼻の頭に指を当てたまま、視線をこちらに向けてくる。  クラスは、「なにか?」と目だけで問い返した。娘に贈る、というのだから、きっと両親からの贈り物なのだろう。 「ふむ。その石は実に高価じゃ。そうそう誰かにあげられるものではない。これだけでわかりすぎるほどにわからぬかや」  クラスは「あっ」と短く声を上げた。  まさかという思いがとてつもない驚《おどろ》きと共に喉元《のどもと》に迫《せ》り上がる。  ホロの視線がもう一度向けられ、たわけが、というように呆《あき》れられた。  ただ一人アリエスだけが、ぽかんとホロの言葉を聞いている。 「それは、誰から贈られたものじゃと思う?」 「え? それは」  アリエスが、続けて答える。 「神様では」  ぐふ、とホロが変なふうに笑ったのがよくわかった。 「あ、あの?」 「ぬしのいう神は手を汚《よご》して石を掘《ほ》らぬじゃろう。それを贈《おく》ったのは」 「領主様だよっ」  クラスが我慢《がまん》できずに言うと、アリエスの目が点になった。 「アリエスは、領主様の……」  娘《むすめ》。  しかし、あまりのことでこんな証拠《しょうこ》があるのに言葉にならなかった。  そのせいで突如《とつじょ》舞《ま》い降りた沈黙《ちんもく》の中、アリエスは手にしていた緑色の石に目をやって、ぼんやりと言った。 「え、あの、え? では、その、領主様という方が、神、様?」 「違《ちが》うよ! アリエスは領主様の娘で、領主様は人間でっ」 「え、え、でも——」  困惑《こんわく》するアリエスにどう言えばいいのかクラスも見当がつかず、ただ語気だけが荒《あら》くなる中、ホロが静かにこう言った。 「確か、あれじゃな。わっちらは押しなべて神の子。そうじゃろう?」  その言葉に、アリエスはすとんとうなずく。 「ふむ」  クラスはそんな馬鹿《ばか》なと思った。  勢い込んで説明しようとして、ぐいと誰《だれ》かに襟首《えりくび》を掴《つか》まれた。  他《ほか》に誰がいるわけでもない、ホロだ。 「わっちも人の機微《きび》くらいわかりんす。それは今言うべきことではありんせん」  ホロの言葉に飲まれ、怒《おこ》られたように首がすくんでしまう。  するとホロはそれ以上なにも言わずにクラスの襟首から手を離《はな》し、どうしたものか、とばかりにため息をついた。 「わっちゃあ年を食っておる者としてその石は手放すべきではないと思うのじゃが……」  そして、そんなことを呟《つぶや》いた。  アリエスが領主様の娘で、その石が領主様から贈られたものであるのなら今となっては形見の品だ。  クラスとしても、それを売り払《はら》ってまで旅をすることなんてできない。ここはやはり戻《もど》るべきなのだろう。  それに、アリエスが領主様の娘であるのならば屋敷《やしき》に帰ればまたこれまでの生活に戻れるのではないだろうか。  さっきよりもよほど冷静になってホロの提案を考えなおし、視線を地面に落とした。  短い旅だったけれども、楽しくないわけではなかった。  そう思えばいくらかましかもしれない。  クラスはゆっくりと顔を上げた。 「ホロさん、やっぱり僕たち——」  ホロは振《ふ》り向いた。  あまりにもすばやく、それも、尋常《じんじょう》ではない目つきで。  突然《とつぜん》のことにクラスは言葉の途中《とちゅう》で固まったままホロのことを見つめていた。  しかし、ホロはそんなクラスを見てはいない。  その視線はクラスのはるか彼方《かなた》。  今までクラスたちが歩いてきた方向だった。 「泣《な》き面《つら》に蜂《ハチ》?」  そして、呟《つぶや》くや立ち上がった。 「ホ、ホロ、さん?」  アリエスは相変わらず無言のまま困惑《こんわく》していて、ようやくクラスがその名前を呼んだ。  ホロが今度こそクラスを振り向く。  ただ、笑顔《えがお》なのかなんなのかわからないその顔には、鋭《するど》さばかりが強調された牙《きば》が剥《む》かれていた。 「ぬしよ、ぬしらを追い出したアンセオの弟君《おとうとぎみ》は人が良さそうだったかや?」  相変わらずの唐突《とうとつ》の質問。  でも、それにはすぐに答えられた。 「いいえ」 「では、兄の後釜《あとがま》におさまるべくさっさと屋敷《やしき》にやってきたような奴《やつ》が、血筋の者がいるとわかればどうするかや?」  これにはすぐに答えられなかった。  いや、答えたくなかった。  財産を受け継《つ》ぐ者は、いつだって決まっている。 「ぬしらが、連中に気づかれる前に旅に出たのは幸運だったのやもしれぬ」  ホロは呟いて、笑う。 「ぬしには駄目《だめ》なところと同じくらい愛嬌《あいきょう》がある。他《ほか》に必要なものはなんだったかや」  昨日の夜の、ホロの言葉を思い出す。  焼けた炭を飲んだように、腹の底が熱くなった。 「アリエス、立って」  クラスは荷物をまとめにかかり、狼《オオカミ》が襲《おそ》ってきた時のように杖《つえ》代わりの枝を掴《つか》んでアリエスに声をかけた。 「まだ相当|距離《きょり》はあるが、いかんな、とても穏便《おんびん》な雰囲気《ふんいき》ではない。追いかけられるだけならまだしも、挟《はさ》まれたら厄介《やっかい》じゃ」  クラスは一瞬《いっしゅん》だけアリエスに視線を向ける。ぎゅっと握《にぎ》り拳《こぶし》を作り、ホロを再度見た。 「森の中を通るかや。ぬしよ」  その言葉を向けられて、クラスはうなずく。 「アリエス」  アリエスは相変わらずただ一人|状況《じょうきょう》がわからないようで、不安そうに緑色の石を握り締《し》めている。  その様は、なにも知らない、なにもわからない、ただの一人の女の子。  クラスは酒も飲めないし、字も読めないし、背だってアリエスより低い。  それでも。 「大丈夫《だいじょうぶ》。僕がいるから」  そうとだけ言って、アリエスに手を差し出した。アリエスは少しびっくりしたように目を見開く。ホロがじっとそんな様を見つめているのがわかって恥《は》ずかしい。  しかし、恥ずかしいけれどもその手を引っ込めようとはしなかった。 「……はい」  アリエスが小さくうなずいて、差し出した手をおずおずと握ってくれたのだから。  柔《やわ》らかい、細くて頼《たよ》りない手。 「行こう?」  アリエスのこの柔らかい手は、僕が守る。  その胸中の決心が聞こえたかのように、アリエスがうなずいた。  ホロが走り出す。  クラスはアリエスの手を引き、ホロのあとを追って森に向かい駆《か》け出したのだった。  走るというよりも、草木の中を泳ぐといったほうが正しかった。  芽吹《めぶ》きの季節を越《こ》えた森はあまりにも生命力に満ちあふれ、自分たちが走っているのはなにか巨大な生き物の腹の中ではないのだろうかと思うこともしばしばだった。  頭上は繁茂《はんも》した葉に覆《おお》われ、空気もむせ返るほどに濃《こ》い。  頬《ほお》や首、手などの剥《む》き出しの部分はあっという間に擦《す》り傷《きず》だらけになり、フードをかぶっているアリエスですら、目元には泣き腫《は》らしたあとのような擦り傷ができていた。  ただ、幸いなことに、生《お》い茂《しげ》った低木や草のせいで道が隠《かく》れているだけで、きちんと石や根っこが取り払《はら》われている杣道《そまみち》が森の中にはあった。先頭を走るホロが迷うこともなくそこを選んで走ってくれていたので、そのあとをついていくのはそれほど大変なことではなかった。  もし、ホロがいなかったら、きっとどれが道なのかわからなくて立《た》ち往生《おうじょう》していただろうし、時折足元を流れている清水や、草に隠《かく》れた沢《さわ》に気がつかず足を取られていたかもしれない。そう考えるだけでぞっとした。うっかりミズゴケに覆《おお》われた木の根っこを踏《ふ》んでしまえば、あっという間に怪我《けが》人の出来上がりだからだ。  森は道の右手が高台になっていて、左手が低地になっている。  右手から左手に水の流れができている時は、その都度ホロが教えてくれ、そこは慎重《しんちょう》に飛び越《こ》えて先に進んだ。  そんな中、クラスはアリエスの手だけはしっかりと握《にぎ》り締《し》めている。  握り締めていないと、森の中に吸い込まれてしまいそうだった。  事実、なだらかな草原の道ですら歩くのが精一杯《せいいっぱい》だったアリエスは、上下左右にうねる森の中の道を走っているせいでどんどん息が上がってきていて、クラスが握り締める手もその重さを増していた。  それが、追いかけてきている追っ手にアリエスのことを引っ張られているような気がして、どんなに走りづらくともクラスはアリエスの手を握り続けた。アリエスもまたはぐれまいとばかりに握り返してきていた。  そんな状態で一体どれほど走り続けたのか。  森の中の濃《こ》い空気が喉《のど》に張り付き、粘《ねば》つくことすら疲《つか》れで気にならなくなった頃《ころ》、ついにアリエスがなにかにつまずいて膝《ひざ》を地面につけてしまった。 「アリエスっ」  クラスは慌《あわ》てて立ち止まり、振《ふ》り向いて声をかけた。  立ち止まると、とたんに汗《あせ》が噴《ふ》き出してくる。まだまだ走れるとは思うものの、腰《こし》から下には泥《どろ》の中に埋《う》まっているかのような疲労《ひろう》感がまとわりつく。  アリエスはろくに瞬《まばた》きすらせず、固く唇《くちびる》を合わせ、大丈夫《だいじょうぶ》だ、とばかりにうなずいた。  とても大丈夫そうには見えない。  それでも、走ってくれないと困るという現実が、クラスの手を勝手に動かし、どう見ても疲労|困憊《こんぱい》のアリエスを立たせようと引っ張り上げた。  自分がひどく悪いことをしているような気がして、言い訳のつもりでクラスは訊《たず》ねた。 「足、捻挫《ねんざ》してない?」  なんとか立ち上がったアリエスは、そのせいで立ちくらみでも起こしたのか、しばらく目の焦点《しょうてん》が合わずにふらふらしていたが、やがて足を幾度《いくど》か動かしてから首を横に振った。  クラスの肩《かた》から力が抜《ぬ》ける。  それでも、そんな様子のアリエスに、「じゃあ行こう」とは言えなかった。 「どうしたかや」  クラスたちがついてこないのに気がついたらしいホロが、引き返してきた。  後ろから見ていると飛ぶように歩くホロもさすがに息が切れていたし、顔にはわずかに擦《す》り傷《きず》があった。自慢《じまん》の尻尾《しっぽ》も生《お》い茂《しげ》る草の水気のせいかぼさぼさになっていて、まるで怒《おこ》っているように見えた。 「アリエスが、つまずいて」 「……捻挫《ねんざ》は?」  その言葉には、アリエスが再び首を横に振《ふ》る。 「ならば、走ってもらわぬと困る。もうしばしかかるからの」  正確な距離《きょり》など聞きたくはなかった。  もしも半分を超《こ》えているならば、元気づけるためにもう残り半分だと言うはずだから、きっとまだ半分も来ていないのだろう。  ただ、残りの距離は聞きたくなくとも、追っ手との間に残されている距離は聞きたかった。  クラスの物問いたげな目に気がついたホロは、微笑《ほほえ》んでクラスの額に張り付いていた葉っぱをとってくれた。 「ふふ。なに、いざとなればぬしの手には槍《やり》代わりの杖《つえ》があるじゃろう?」  その優《やさ》しげな目が、恐《おそ》ろしい事実を少しでも柔《やわ》らかくして伝えようとしているかのように思えてしまう。クラスは杖を痛いくらいに握《にぎ》り締《し》めて、うなずくほかなかった。 「とにかくわっちらは追っ手よりも先に町に入ればひとまず安心じゃからな。ほれ、行くぞ」  ホロはそう言って、再び走り出した。  町に入ればどうにかなる。  それを唯一《ゆいいつ》の支えにして、クラスとアリエスも走り出した。  クラスが仕えていた領主の館では、家畜《かちく》小屋の隅《すみ》の虱《シラミ》だらけの藁束《わらたば》の上で豚《ブタ》と一緒《いっしょ》に眠《ねむ》るような、クラスよりもさらに低い身分の者が何人もいた。彼らは戦《いくさ》の捕虜《ほりょ》になったり借金で売られてきたりという言葉もろくに通じない奴隷《どれい》たちで、葡萄棚《ブドウだな》の修繕《しゅうぜん》や荒地の開墾《かいこん》といった力仕事でこき使われていた。  クラスですら、毎日言いつけられる仕事が嫌《いや》で、一週間のうち四日は逃《に》げ出そうかと考えるくらいなのだ。彼らは実際に逃げ出すことが多く、その都度留守がちの領主に代わって髭《ひげ》の執事《しつじ》が甲冑《かっちゅう》に身を包んで馬にまたがり彼らを追いかけていた。  彼らも一つの希望を胸に逃げ出していたという。  どこかの町の市壁《しへき》の内側に逃げ込めば、領主の追っ手は町の中でその者を捕《つか》まえてはならないという決まりがあるのだそうだ。  町の空気は人を自由にする。  おぼつかない発音でそんな言葉を呟いていた彼らの気持ちが、クラスには今痛いほどわかった。  それでも、三人逃げれば二人は捕まり、鞭《むち》で打たれるのが常だった。  自分たちも捕まれば鞭で打たれるのだろうか。それとも縛《しば》り首《くび》なのだろうか。  鞭《むち》が唸《うな》りを上げ、奴隷《どれい》の背中を打つ時の音が蘇《よみがえ》る。まるで背中に雷《かみなり》が落ちるような音と共に、背中の皮膚《ひふ》と血と脂《あぶら》が弾《はじ》け飛ぶ様がまざまざと眼前に浮かび上がってしまう。  クラスはそんなことを考え出してしまい、知らず知らずのうちにアリエスの手を目一杯《めいっぱい》に握《にぎ》り締《し》めていた。 「神は私たちを常に見守ってくれています」  そんな手を通じて胸のうちの不安が伝わっていたらしく、アリエスは疲《つか》れて頬《ほお》が強張《こわば》っているにもかかわらず、優《やさ》しくそう言って、微笑《ほほえ》んでくれた。  頑張《がんば》らなければならない。  歯を食いしばって、クラスは不安な想像を噛《か》みつぶした。 「行こう」  クラスの言葉にアリエスはうなずき、初めて羽を羽ばたかせた小鳥のように走り出した。  この深い森を抜《ぬ》け、町にたどり着き、そのあとにどうするのかなどまだ皆目《かいもく》見当もつかない。  アリエスが親から譲《ゆず》り受けたらしい宝石を売るのか、さもなくばクラスとアリエスと力を合わせて働いて、お金を稼《かせ》いで暮らしていくのか。  それとも、水と食料をたっぷり詰《つ》め込んだ荷物を背負って、海に続く道を二人で歩いていくのだろうか。  ホロはこの深くて薄暗《うすぐら》い森の中で、クラスたちのことを導いてくれている。  その背中は小さいくせにとても頼《たよ》りがいがあって、肩越《かたご》しに振《ふ》り向いてにやりと唇《くちびる》をつり上げてくれれば、どんな狼《オオカミ》の群れが来たって怖《こわ》くはない。  きっと、町に着けばどうにかしてくれる。出会ってからこの方、色々と教えてくれたのだからこれからだって教えてくれるに違《ちが》いない。  だから今はただ、とにかくアリエスの手を引いて走ることだけを考えればいい。  クラスは、背中の荷物に押しつぶされそうになりながら、そんなことを思い、走っていた。  森を引き裂《さ》くような醜悪《しゅうあく》な叫《さけ》び声《ごえ》が聞こえたのは、まったく唐突《とうとつ》なことだった。 「っ……!」  クラスは立ち止まり、ほとんど惰性《だせい》で走っているようなものだったアリエスがクラスの肩《かた》にぶつかって、少しクラスのことを追い越《こ》した。  ごめん、と謝《あやま》らないのは、アリエスも目を点にして、森を見つめていたからだ。  甲高《かんだか》い、鶏《ニワトリ》が絞《し》められる時のような叫び声。  鳥の鳴き声だろうか。  そう思った直後、再び同じ叫び声が聞こえ、ばさばさという羽音が聞こえた。 「……鳥?」  その場にへなへなと崩《くず》れ落ちそうになるのをなんとかこらえて、自分に言い聞かせるように呟《つぶや》いた。  アリエスは怯《おび》えた顔で耳を押さえるようにしている。  それからもう一度羽音が聞こえたので、クラスは鳥だと確信した。 「アリエス、大丈夫《だいじょうぶ》。鳥だよ」 「……と、鳥……ですか?」  疑うような目つきなのは、とてもあんな声を出して鳴くような鳥に心当たりがないからだろう。  クラスは赤《あか》ん坊《ぼう》を連れ去るような大きな鳥を何度も見たことがある。きっとその類《たぐい》だろうと自信を持って言えたので、「そうだよ」と言ってアリエスの手を握《にぎ》りなおした。 「それより、早くホロさんに追いつかないと……」  クラスはそう言ってから視線を前方に向け、踏《ふ》み出そうとした足を止めた。  右手に少しだけ曲がりながら坂を上《のぼ》る形になっている道の先で、ホロが背中を向けたまま立ち止まっていたからだ。  クラスたちが追いついてくるのを待っている、というふうには見えない。  背中を見せたままのホロは、どことなくうつむきがちに、しかし、耳だけは兎《ウサギ》よりも機敏《きびん》にあちこちに向けていた。 「ホロさん——」  そう口にしたのかどうかクラス自身もわからないくらい同時に、ホロが急にこちらを振《ふ》り向いた。  そう思ったのは一瞬《いっしゅん》で、すぐにホロの視線がクラスたちよりももっと遠くを見ていることに気がついた。  クラスたちが走ってきた道の向こう。  その道の先に向かって穏《おだ》やかではない視線を向けているとなれば、見ているものは、一つしかない。  クラスが固唾《かたず》を飲んでホロの挙動を見守っていると、クラスたちのほうに滑《すべ》るように坂を下ってきた。ホロは、相変わらず視線をこれまで歩いてきた方向に向けながら口を開く。 「追っ手がついてきておらぬようじゃ」 「え」  突然《とつぜん》のことにホロの顔を見つめ返すが、ホロは意識を遠くに向けたままだ。 「なにか企《たくら》んでおるのか? じゃが……」 「み、道に迷った、とか」 「かもしれぬ。ちょっと見てくるかや」  そう言って、ようやくクラスを見たホロの顔に笑《え》みが浮かんだ。 「ぬしらは少し休憩《きゅうけい》していればよい。どの道これ以上無理するのは危険じゃからな。なに、怖《こわ》がらんでもすぐ戻《もど》りんす」  一方的にホロは言って、クラスの肩《かた》を軽く叩《たた》くと元来た道を戻っていってしまった。  もちろん呼び止められるわけもなく、その背中が森の中に消えていくのを突《つ》っ立って眺《なが》めていた。ホロ一人で大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか、とも思うし、ホロに見|抜《ぬ》かれたように取り残されて怖くもある。  ただ、休憩できるのはありがたいことだと思ってアリエスを振《ふ》り向くと、クラスは目を見開いて叫《さけ》んだ。 「わ、あ、アリエス!」  張り詰《つ》めていた糸が切れてしまったかのようにぺちゃんと尻餅《しりもち》をついたアリエスを、なんとか抱《だ》きとめてそのまま後ろに倒《たお》れないように防ぐ。アリエスは荒《あら》くはないが静かでもない息遣《いきづか》いで、目を閉じてぐったりとしていた。  数日前、疲《つか》れているのに無理を押して歩いていたせいで、道のど真ん中で気絶してしまったことを思い出した。あの時の恐怖《きょうふ》といったら、今思い出したって下腹が凍《こご》えるように感じるほどだ。  クラスがほとんど抱きかかえるようにして顔を覗《のぞ》き込んでいると、小さな弱々しい声で、「水」と聞こえた。 「水? ちょ、ちょっと待って」  片手でアリエスを支えながら、背負っていた荷物を降ろして脇《わき》にくくりつけてある皮袋《かわぶくろ》を乱暴に解《ほど》いた。皮袋の中の水はもうほとんどなくなりそうだったが、クラスはためらわずに飲み口をアリエスの口元に当てた。  アリエスは相変わらず目を開けはしなかったが、飲み口が当てられていることに気がつくと小さく口を開けたので慎重《しんちょう》に水を飲ませてやる。  最初こそ、口の中がからからに渇《かわ》いていたせいか、むせるような素振《そぶ》りを見せたが、すぐに息を吸うように水を飲んだ。  水の止め時がわからずに、アリエスが口を閉じてからも数瞬《すうしゅん》皮袋を傾《かたむ》けていたせいで、水があふれてしまった。アリエスの顎《あご》と服が濡《ぬ》れてしまったが、アリエスは怒《おこ》るでも驚《おどろ》くでもなく、口元だけで微笑《ほほえ》んでくれた。 「気分、悪くない?」  クラスが訊《たず》ねると、アリエスは首を横に振った。  顔色が殊更《ことさら》に悪いというわけでもなさそうだったので、信用してもよさそうだった。  水を飲んで幾分《いくぶん》落ち着いたのか、呼吸がゆっくりと、深いものになってくる。  このまま眠《ねむ》ってしまいそうな雰囲気《ふんいき》だな、とクラスが思っていると、もそりとアリエスの体が小さく動き、その左手がクラスの右手を掴《つか》んできた。  アリエスは目を閉じたままだ。  軽くて頼《たよ》りなくてコルクでできているかのような手を握《にぎ》り返すと、それでようやくアリエスが目をうっすらと開け、小さく微笑《ほほえ》んできた。  ほっとするような、安心するような、そんな弱々しくて少しだけ光り輝《かがや》いている燐光《りんこう》のような笑顔。  その笑顔を見た瞬間《しゅんかん》、痛いほど胸が高鳴ってしまう。  クラスが無意識のうちに胸の奥から湧《わ》き上がるなにかを言葉にしようとした瞬間、アリエスが小さいため息のようなものをついた。  それが欠伸《あくび》だったのだと気がついて、クラスは我に返り、気勢をそがれて頬《ほお》が緩《ゆる》んだ。 「なんだ、眠《ねむ》いの?」  ちょっと笑ってしまい、それがアリエスには少し恥《は》ずかしかったらしい。  唇《くちびる》が少しだけ尖《とが》った。 「少しでも眠ったらいいよ」  アリエスの顎《あご》についたままだった雫《しずく》を拭《ぬぐ》ってやって、呟《つぶや》くように言った。  ほんのわずかな時間でも眠れれば、疲《つか》れというものはびっくりするほどとれるものだ。  きっと、そんなことを言わなくても睡魔《すいま》はアリエスのことを逃《に》がしはしないだろうが、言われたアリエスは少しの間をあけてから、律儀《りちぎ》にゆっくりとうなずいた。  それから楽な姿勢をとろうとして、クラスにもたれかかるようにした時にはすでに眠っていたのかもしれない。  柔《やわ》らかなアリエスの体が、腕《うで》の中に沈《しず》み込んできた。  身長はアリエスのほうが少しだけ高いので、ともすると押し倒《たお》されかねなかったが、それだけは男の意地にかけて回避《かいひ》した。  できればこのままぐっすりと眠らせてあげたいくらいだが、それは難しいだろう。せめてホロの帰りが少しでも遅《おそ》くなれば、と思わなくもない。  とはいうものの、クラスの心の中には同時にホロに早く帰ってきてほしいという思いもある。  森の中はどうしても薄暗《うすぐら》く、あまりにも静かだ。  ホロがもしこのまま帰ってこなかったらどうしようかと不安になる。もちろん、不安になったってなにがどうなるわけでもないことはわかっている。  だから怯《おび》えるだけ損だ。  クラスは頭を振《ふ》ってそんな嫌《いや》な考えを頭から追い出し、自らを鼓舞《こぶ》するように大きく一つ深呼吸をした。  ただ、漠《ばく》とした不安は頭からなんとか追い出せても、目の前に迫《せま》るもろもろのことからは逃げ出せない。  アリエスに水を飲ませたままほったらかしにしている皮袋《かわぶくろ》だって、今では空っぽでぺちゃんこになっている。  どこかで少し水を汲《く》んでおかないと、もしもまた野宿なんてことになったら喉《のど》の渇《かわ》きで眠《ねむ》れるかどうかわからない。  それに、水のことを考え出したら途端《とたん》に喉の渇きが耐《た》え難《がた》いものになってきた。  腕の中で兎《ウサギ》のように眠るアリエスを見て、ちょっと考える。  ここまで走ってくる途中《とちゅう》、森の中全体が水浸《みずびた》しなんじゃないかと思うくらいにたくさんの清水の流れを飛び越《こ》えてきた。この辺りも探せばすぐに清水の流れが見つかるかもしれない。  そんなことを思い始めたらいてもたってもいられなくなってきた。  しっとりとした焼き立てのパンのようなアリエスの手を離《はな》すのは忍《しの》びなかったが、クラスはアリエスの指をゆっくりと解《ほど》いて手を離し、その肩《かた》を支えるために荷物を慎重《しんちょう》にあてがった。  ちょっとした罪悪感がないわけでもなかったが、猛烈《もうれつ》に湧《わ》き上がってきた喉の渇きに勝てはしない。  アリエスが依然《いぜん》としておとなしく眠ってくれていることを確認《かくにん》してから、クラスは皮袋《かわぶくろ》を手にとって立ち上がった。  瞬《まばた》きを一度するごとに喉の奥が熱くなっていく気がする。  何度も何度も存在しない唾《つば》を嚥下《えんげ》して、想像の中で冷たい水を飲み下す。  視線をぐるりと辺りに巡《めぐ》らせ、水を好みそうな植物が生えていないかと見回した。  アリエスからあまり離れるのもまずいと思ったので、熊《クマ》のようにぐるりと円を描《えが》くように探し、目当てのものはすぐに見つかった。  少し離れたところにある巨木が青々と苔《コケ》むしていると思ったら、その裏|側《がわ》にちょろちょろと清水の流れが見つかった。  ただ、こんなしみ出るような量だと皮袋に詰《つ》めるのはおろか、飲むのだってままならない。  少しためらってから、クラスは水の流れる方向に足を進めていった。  水はゆっくりと坂を下って流れていて、それほど道は悪くない。  苔に足を滑《すべ》らせないようにとだけ注意しながら下っていくと、すぐに小さな崖《がけ》に行き当たった。  その下を覗《のぞ》いて歓声《かんせい》を上げるよりも早くに、どうやって下に下りようかと辺りに視線を巡らせていた。  クラスの身長分もないだろう小さな崖の下には、あちこちからしみ出してきた水が集まってできたのか、そこそこ大きな池があったのだ。  水はとても澄《す》んでいて、底は砂地になっているようだった。  なんにせよ、クラスははやる気持ちを抑《おさ》えながら草を掻《か》き分け崖を大回りに回って下り、急に石や岩が多くなる足元に注意しながら池に歩み寄って、気がついた。  クラスが先刻上から池を見つけた場所は、ちょうど洞窟《どうくつ》の真上だったらしく、池はその洞窟の奥から続いてきていた。  洞窟《どうくつ》の入り口はクラスが身をかがめても入れないくらい狭《せま》いのに、奥はどこまで続いているかわからない。  ただ、気になるのはとにかく池の水で、その水の綺麗《きれい》さときたら目が覚めるようなものだった。  すぐにその場に膝《ひざ》をつき、まず一口。  その時の喜びをどう表現したらいいのかクラスにはわからない。  水はさらさらで冷たくて、クラスは夢中で飲みまくった。  どれくらい夢中で飲んでいたのか、息苦しくなってようやく顔を上げ、大きなげっぷをしてため息をつく。  まるで冬の日の井戸《いど》水のような冷たさだ。  そんな水の中を、クラスのことなどまったく気にしていないといった様子で小魚が泳いでいた。優雅《ゆうが》に泳ぐその魚は、しばらく池の真ん中辺りをうろうろしたあと、すっと洞窟の中に入っていった。  クラスは喉《のど》の渇《かわ》きを癒《いや》した直後の放心に似た満足感の中、ぼんやりとその姿を見つめていた。  それからはっと我に返った時、自分が眠《ねむ》りかけていたのだと気がついて、慌《あわ》てて口元を拭《ぬぐ》って頭を叩《たた》く。  こんなところで眠ったら、戻《もど》ってきたホロに怒《おこ》られる。  クラスはさっさと皮袋《かわぶくろ》に水を詰《つ》め込み、腰《こし》にくくりつけた。  それからもう一度だけ池に口をつけようとして身をかがめた、その時だった。 「?」  なにか、どこからか視線を向けられているような気がしたのだ。  アリエスの側《そば》にいない自分のことをホロが探しに来たのだろうか、と思って辺りをもう一度見回してみるが、ホロの姿は見当たらない。  池の周りは背の高い草も生えているが、それほど視界が悪いというわけではない。  隠《かく》れる場所もないのに、視線の主は見つからない。 「気の、せい、かな……」  半ば自分に言い聞かせるように呟《つぶや》いて、後ろが気になりつつも池のほうを向きなおり、そろりそろりとその澄《す》んだ水に口を近づけようとして、気がついた。  洞窟から半円形に広がる池の左のほうに、ひっそりと佇《たたず》んでいる動物がいたのだ。 「……」  じっとこちらを見ているのは、まだ体から斑点《はんてん》が消えていない子鹿《こジカ》だった。  崖《がけ》の保護色になっていて気がつかなかったのか、とクラスは思いつつも、頭の中では明らかにそこに子鹿なんていなかったと結論が出ている。  森の中ではどんな不気味なことも簡単に起こりうる、なんていう怖《こわ》い話を思い出した。  ただ、子鹿《こジカ》は化け物に変身するわけでもなく、こちらを見つめている。もしかしたら人を見るのが初めてで、珍《めずら》しがっているのかもしれないと思った。  クラスは小鹿のほうを盗《ぬす》み見るように窺《うかが》いつつ、手早く水を飲んで立ち上がった。  子鹿は逃《に》げる素振《そぶ》りすら見せない。  どちらかというと可愛《かわい》らしい子鹿なのに、その微動《びどう》だにしない姿と真っ黒い双眸《そうぼう》に見入られて、どういうわけかクラスの背筋を冷たいものが這《は》う。  もちろん、じっと見つめてくるだけで牙《きば》を剥《む》いて襲《おそ》ってくるわけでもないので、恐《おそ》れる必要はない。胸中で自分にそう言い聞かせながらクラスはさっさと踵《きびす》を返し、半ば逃《に》げるように走り出した。  何度も後ろを振り返りつつ、追いかけられていないかと馬鹿《ばか》な妄想《もうそう》を抱《いだ》きながらも、足は確実に速くなっていた。  大した距離《きょり》でもなかったのに、アリエスの下《もと》にたどり着いた時は心底ほっとした。  もっとも、アリエスの側《そば》にホロの姿もあったのは、幸か不幸かわからなかったが。 「森の奥で化け物を見た、とでも言いたげな顔じゃが」 「……」  ホロのからかうような笑《え》みは、少々腹立たしかったが、やっぱり見ると不安が解けてなくなるようなものだった。 「水を汲《く》んできました」 「む、そうかや」  ホロは呟《つぶや》いて、眠《ねむ》っているアリエスの前髪《まえがみ》を軽く弄《もてあそ》んでいる。  そんなことをしたら起きてしまうだろうに、とホロを責める気持ちと、ホロの綺麗《きれい》な指がアリエスのさらさらの前髪を弄ぶ様をずっと見ていたいような複雑な気持ちにさいなまれた。 「……くれぬか?」 「え?」  突然《とつぜん》ホロに声をかけられて、クラスは我に返る。ホロは少しだけ目を細めてから、小首をかしげてもう一度言葉を投げてきた。 「水をくりゃれ?」 「あ、は、はい」  座ることすらせず、ぼーっと突《つ》っ立っていたクラスは慌《あわ》ててホロに皮袋《かわぶくろ》を手|渡《わた》した。  ホロは、当然見|逃《のが》してなどくれない。 「ぬしもして欲しいかや?」  白い牙を水に濡《ぬ》らし、目を細めて笑うその顔に、つい固唾《かたず》を飲んでしまう。  もちろん、意地にかけて首は縦に振らなかったが。 「そ、そんなことより、追っ手のほうは」  ホロから少し離《はな》れたところに腰《こし》を下ろし、クラスは強めの口調でそう訊《たず》ねた。  ホロにからかわれたのが腹立たしかったのもあるし、強い口調で訊ねないとどうしようもなく気弱な物言いになってしまうと思ったからだ。  クラスの言葉に耳を二、三度ひくひくさせたホロは、皮袋の中を覗《のぞ》き込むようにしてから、「ふむ」と小さく言った。 「おらんかった」 「え」 「おらんかった」  しばしホロの言葉の意味を考えていたものの、それが指し示す事実は単純なことなのだと気がついて、もう一度|驚《おどろ》きの声を上げた。 「ていうことは、その、僕たちは……」 「助かった、というにはまだ早いが、今すぐ捕《つか》まるということはなくなったようじゃな」  クラスはため息なのかなんなのか自分でもわからない吐息《といき》をついて、へなへなと肩《かた》の力が抜《ぬ》けてしまった。  背中の骨の中で頑張《がんば》っていた、なにか硬《かた》い棒が一本ぽきりと折れてしまったような気分だった。  ホロはそんなクラスの様子を見て声なく笑っている。  それでも、アリエスの頬《ほお》を軽く撫《な》でながら笑うホロの顔は、からかう類《たぐい》のものではなく、どちらかというと優《やさ》しげな、クラスのことを褒《ほ》めてくれるような笑顔《えがお》だった。 「もっとも、森の外を歩いている連中もおるじゃろうから、まだ完全に安心はできぬがな。まあ、まずわっちらのほうが早くに森を越《こ》えて町に着くじゃろう」  ホロが気休めを言うとも思えない。  クラスは頭からその言葉を信じてうなずき、冷えて固まった足を伸《の》ばした。 「少しばかり休憩《きゅうけい》するかや。かなり無理をして進んできたからの」 「そう……ですね」  その言葉もすでに欠伸《あくび》まじりだ。  ホロは呆《あき》れるように笑って鼻をこすると、するりと立ち上がり、クラスの横に腰を下ろした。 「そんなに警戒《けいかい》するでない」  くつくつと喉《のど》の奥で笑うホロの顔を、そう言われたからといって不信の目で見ないわけにはいかない。  もちろん、そんなことで怯《ひる》むホロではなく、「ほれ」という言葉がクラスの耳に届いた瞬間《しゅんかん》には、クラスの頭はホロの膝《ひざ》の上にあった。  なにかの魔術《まじゅつ》のようで、きっとそうに違《ちが》いないと思った。  なぜなら、クラスは顔が真っ赤になってしまうくらいに恥《は》ずかしかったのに、そこから体を起こす勇気が湧《わ》かなかったからだ。 「眠《ねむ》れば力が幾分《いくぶん》戻《もど》る。もうしばし距離《きょり》があるからの。そのためには寝《ね》たほうがよい」  くしゃりと頭を撫《な》でられ、首の後ろがむずむずするような感じがとても心地《ここち》よかった。  それに、ホロの言葉は言い訳として十分だ。  クラスはホロの膝《ひざ》の上でうなずきかけた。  完全にうなずかなかったのは、そのあとにホロの言葉が続いたからだ。 「場合によっては精根|尽《つ》きたアリエスをぬしが担《かつ》いで運ばねばならなくなるやもしれぬしな」  その名前に目が覚めて、視線がアリエスに向けられた。  クラスの手を掴《つか》んで、不安そうな顔から一転して安堵《あんど》の笑《え》みを浮かべたアリエスのその左手は、今は軽く閉じられてなにも握《にぎ》ってはいない。  きっと、今もアリエスは夢の中でクラスの手を握っているはずだ。  そう思うと、そんなアリエスの目の前でホロの膝枕《ひざまくら》で眠《ねむ》るのがあまりにも悪いことのような気がしてしまったのだ。  だから、クラスは頭を上げようとした。  それが妨《さまた》げられたのは、他《ほか》に誰《だれ》かがいるはずもない、ホロの手によってだった。 「くっくっく……まったく、律儀《りちぎ》な雄《おす》じゃな、ぬしは」  顔を上げかけたところを、こめかみに肘《ひじ》を当てられ、頬杖《ほおづえ》をつかれた。  驚《おどろ》き半分、怒《いか》り半分、もったいなさ少々でその肘をどかそうとすると、痛いくらいに肘を押しつけられて、諦《あきら》めた。 「これはわっちがどうこうする必要はなかったかもしれんな」 「え?」 「なんでもない。独《ひと》り言《ごと》じゃ。それより」  ホロは言うなり肘をどける。クラスはやれやれとばかりに顔を上げようとして、ホロはそこに言葉を挟《はさ》んだ。 「わっちゃあ負けず嫌《ぎら》いでな?」  ふわり、という感触《かんしょく》を、上げかけた顔とホロの膝との間に感じた。  一体今度はなにをやったのか、と思う間もない。  耳や頬をくすぐるふわふわとした感触と、すぐ側《そば》で感じられる濃密《のうみつ》なホロの匂《にお》い。  顔の下には、ホロのふかふかの尻尾《しっぽ》があった。 「んふふふ。これでもぬしは顔を上げられるかや」  抗《あらが》いがたい魅力《みりょく》、という言葉はきっと頬の下にある温かい尻尾の感触のことなんだとクラスは思った。  そこにホロの手がさらに頭を撫でてくる。  立ち向かえるわけがない。  クラスは首から力が抜《ぬ》けて、こてんとホロの枕《まくら》の上に不時着した。 「ま、こんなところじゃな」  誇《ほこ》らしげなホロの言葉と、視線の先にあるアリエスの寝姿《ねすがた》。 「安心するがよい。アリエスが目を覚ます前にぬしのことを起こしてやるから」  なぜだか自分がひどく汚《よご》れてしまったような気がして悲しくなってしまったが、一番悲しかったのはホロのその言葉に本当に安心してしまったことだ。  ただ、自分の情けなさに今にも泣きそうだったクラスの耳元に口を近づけてきたホロの口調は、若干《じゃっかん》からかうような色がまじっていたものの、嘘《うそ》を言っているようには思えなかった。 「なに、少しくらい自分に負い目があったほうが、相手に優《やさ》しくできるというものでありんす」 「え……」  数瞬《すうしゅん》、言葉の意味を考える。  ホロは自分のことを賢狼《けんろう》と呼んでいた。  クラスは、それを本当だと思った。  目が覚めたらアリエスに優しくしよう。  そんな言い訳を心の中で呟《つぶや》くと、ホロの尻尾《しっぽ》の上でとてもよく眠《ねむ》れそうな気がしたからだ。  クラスは、もうそれからほんのわずかなうちに真っ暗な闇《やみ》の底にいた。 「さて、次は……」  と、ホロが独《ひと》り言《ごと》のように呟いた気がする。  しかし、それが寝入りばなの夢だったのかどうか、結局わからずじまいだった。  ホロとアリエスがなにかを話しているような気がした。  その言葉の内容はよくわからないが、少なくともそれは夢に違《ちが》いないと思うことはできた。  なぜなら、ホロはアリエスが起きる前に自分のことを起こしてくれると言ったからだ。  だから、ホロのふわふわする温かい尻尾の上でばちっと音がするような勢いで目を開けた時に、じっとこちらを見ていたらしいアリエスがびっくりして顎《あご》を引いたのを見た瞬間、クラスが真っ先に思ったことは、「ホロの裏切り者」ということだった。 「ねぼすけが起きたところで行くかや」 「……」  謝罪などもちろんなく、糾弾《きゅうだん》の機会すら与《あた》えられずにクラスは荷物を背負わされ、一行は歩き出した。  時間的には本当にちょっとの間だったらしく、クラスも小石を投げて下に落ちてきた程度の時間しか眠っていないような感覚があった。  それでもかなり疲《つか》れはとれたし、アリエスも同じようだった。  ただ、アリエスが仔犬《こいぬ》のように頼《たよ》ってきてくれたのをほったらかしにして、自分はホロの尻尾《しっぽ》の枕《まくら》の上で眠《ねむ》っていたわけだから気分|爽快《そうかい》にはほど遠い。  それどころか歩き始めた当初は暗澹《あんたん》たる気持ちで、ついさっきまでこれ以上ないほどの寝|心地《ごこち》を提供してくれたホロの尻尾が憎《にく》らしかった。  どんな顔をしてアリエスに話しかければいいのかわからない。なぜホロは起こしてくれなかったのか。  クラスはそんな暗い気持ちに押しつぶされそうになっていたせいで、しばらくそれに気がつかなかった。  しかし、気がついた直後には小さく驚《おどろ》きの声を上げていた。  それは他《ほか》でもない、アリエスがクラスの手を握《にぎ》ってくれていたからだ。 「離《はな》してはいけない、とホロさんが」  真剣《しんけん》な顔をして言うのだ。  もちろん、クラスとしてはアリエスが怒《おこ》ったりしていないことに内心|安堵《あんど》のため息をついていた。絶対に、怒っていると思っていた。 「これは神が与《あた》えた試練だそうですから」  ただ、そんな言葉だけはちょっと曖昧《あいまい》な表情で言って、ホロのほうをちらりと見た。  クラスはその言葉の意味を考えて、ゆらゆら揺《ゆ》れるホロの尻尾《しっぽ》を睨《にら》みつける。  本当に、大きなお世話だと思った。  そんなあれこれの物思いも、歩き始めて疲《つか》れを思い出す頃《ころ》には頭の片隅《かたすみ》に追いやられていた。  クラスたちは無言で歩き、また森も静かだった。  領主の館の近くの森では少し歩けば色々な動物と出会ったのに、この森できちんと姿を見たのはあの池の縁《ふち》にいた小鹿《こジカ》くらいで、それ以外には気配すらしない。  もともとそういう森なのかもしれない、と思ったりもしている最中に、ふと顔を上げた。  リスやその手の小動物が頭上の木々をたくさん飛び交《か》っているのかと思ったのだ。  それが勘違《かんちが》いだとわかったのは、倒木《とうぼく》が切り開いた森の木々の傘《かさ》の隙間《すきま》から、ぱらぱらと小雨が降っているのが見えてからだ。 「雨かや。まあこの程度ならば森の中を歩く分には濡《ぬ》れることもないじゃろう」  ホロの言うとおり、時折鼻の頭に小さな雫《しずく》が当たるだけで、分厚く頭上を覆《おお》っている木の枝と葉っぱの隙間から雨が落ちてくることはなかった。  しかし、雨が降っているとわかってから、森の中に妙《みょう》な静けさを感じ始めていた。  音が存在しなくて、どんな遠くで針が落ちても聞こえそうな静けさではなく、耳に鉛《なまり》で蓋《ふた》をされたかのような静けさだ。  自分の呼吸はよく聞こえても、すぐ近くのアリエスの衣擦《きぬず》れは聞こえない。  雨が降っている時独特のそういうちぐはぐな静けさが、辺りに重苦しく立ち込めているような気がした。  クラスは、雨の日に生まれた子供は笑わない、という話を聞いたことがある。  領主が飼《か》う蜜蜂《ミツバチ》の巣箱《すばこ》の管理人が無口で無愛想なのは、しとしとと雨の降る昼間に生まれたからだというのがもっぱらの噂《うわさ》だった。  森の中は相変わらず葉っぱやシダや苔《コケ》の緑色があふれているのに、わずかに煙《けむ》って見えていた。  どことなく不気味な雰囲気《ふんいき》で、クラスは少しだけアリエスの手を強く握《にぎ》る。  アリエスも不安なのか、やはり同じくらい強く手を握ってきた。  そんな折に、クラスはひょいと視線を向けた先にまたそれを見つけた。  木々の生《お》い茂《しげ》る向こう。なんとかその先にあるものがなにかわかるといった場所。  小さい尾根のようになった場所に立ち、こちらを藁《わら》かなにかで作った人形のように見下ろしているものがいた。  鹿だ。  ホロは気がついていないようで、クラスも自分の気のせいかと思いもう一度見た時には、鹿の姿はなかった。  なにか嫌《いや》な寒さを感じて、小さく体を震《ふる》わせる。  口に出したくなくて、きっと鹿《シカ》を見たことないだろうアリエスにも、言わなかった。  それからあと、やはり、ホロもアリエスも無言で歩いた。  その沈黙《ちんもく》に急《せ》き立てられるかのように、ホロの進む足は徐々《じょじょ》に速くなっていた。  ホロの話では追っ手は来ていないとのことなのだから、ゆっくり行けばよいように思うものの、雨の森の中での野宿など考えただけで身の毛もよだつ。追っ手に捕《つか》まるか、はたまた暗闇《くらやみ》の森に捕まるか、そう言ってもよい気がした。  クラスはアリエスの手を引いて、なんとかそれについていこうとしていたが、時間が経《た》てば経つほどアリエスの疲労《ひろう》は増していき、その足は遅《おそ》くなっていく。  何度か、ホロがこちらを振《ふ》り向いて不機嫌《ふきげん》そうな顔をした。  それを見て、クラスは数日前、自分もアリエスに対してこんな顔をしていたのかと思った。  だから、クラスはアリエスを急《せ》き立てる代わりに、こう口を開いた。 「アリエスは、海のほかになにを見たい?」  そう訊《たず》ねたクラス自身も、世界になにがあるのかはよくわからない。  できれば一度空を支える高い木というものを見てみたかったが、さすがにそれは無理だろう。 「ほかに……ですか」  疲《つか》れてはいても、口調にはまだ少しだけ元気が残っていた。  なにより、話しかけられて、明らかにほっとしている感じがその乏《とぼ》しい表情の中にあった。 「火を噴《ふ》く山とか、空から川が落ちてくる場所とかあるらしいけど」  アリエスはフードの下で首をひねる。  ちょっと想像がつかないらしいが、クラスも想像がよくできないので責められない。  格好つけるのはやめて、知っているものを言うことにした。 「うーん……それじゃあ、麦畑は見たことある?」 「麦畑?」 「そう。麦はわかる?」  こくりとうなずく。 「それが一面に実っていてね、辺り一帯が金色の絨毯《じゅうたん》みたいになっているんだよ」  これはアリエスにも想像できたらしい。  目を見開いて、遠くを見るようにぼうっとしてから、つまずいて転びそうになり、ぼんやりとしつつも「麦畑……」と確認《かくにん》するように呟《つぶや》いていた。 「遠くから見るとふわふわでね。飛び込んでみたくなるんだけど、本当に飛び込んだら全然ふわふわしてなくて。しかも、麦がたくさん倒《たお》れちゃって、大人に棒で叩《たた》かれた」  クラスが言うと、アリエスは少し驚《おどろ》いてから、笑った。  年上のお姉さんのような笑顔《えがお》だった。 「反省しましたか?」 「すごくした」  素直《すなお》に答えると、「それならば神もお許しになられます」と言って、微笑《ほほえ》んでくれた。  クラスはその笑顔をどういうわけか見つめられずに、慌《あわ》てて顔を背《そむ》けて次の話題を探した。 「あ、あとは、船とか」 「船なら知っています」 「え、そうなの?」  海も知らないのに、という言葉は危《あや》うく飲み込んだ。 「世界を覆《おお》う大|洪水《こうずい》の起こる時、正しき者たちだけを乗せて、空の国へと連れていってくれる乗り物です」  足元が疲《つか》れでおぼつかない割には少しの乱れもなく喋《しゃべ》るアリエスの顔はちょっと得意げだ。  神様の話をする時にも似たような顔をする。クラスはその顔が少し好きではない。  だが、今のちょっと得意げなアリエスは間抜《まぬ》けで好きだった。 「僕の知っている船は空を飛ばない、と思うよ」 「?」  きょとん、とした目で見つめ返されて、世界中の船を知っているわけではないクラスはちょっと不安に思ったが、前方をただただ歩くホロの背中に目を向けてから、こう答えた。 「川とか湖とか、とにかく水の上に浮かべて、人が乗ったり、馬を運んだりするんだよ」 「水の、上に?」 「そう」 「沈《しず》まないのですか?」  クラスも最初に船を見た時こそ沈まないことが不思議で仕方がなかったが、これは実際に沈まない船を見たことがあるので胸を張って答えられる。  それにしても、船が空を飛ぶことは信じても、水に浮くことは疑うのが面白《おもしろ》かった。 「沈まない。たくさんの、それこそ、何人かでようやく持ち上げられるような重い麦の詰《つ》まった袋《ふくろ》をいくつも積み上げても、船は沈まない」  クラスが言うと、アリエスは疑うような目をして、形の良い小さな唇《くちびる》を少しだけ尖《とが》らせながら「嘘《うそ》はいけません」と言った。  からかわれていると思ったらしい。  クラスの顔が笑ってしまったのは、その言葉がものすごくくすぐったかったからだ。 「嘘じゃないよ。僕がこの目で見たんだから」 「悪魔《あくま》の仕業《しわざ》かもしれません」 「なら、船を見た時に水の上に浮かんでいたらどうする?」  ぐっとアリエスは言葉に詰まった。  アリエスの中には、すんなりと他人の言葉を受け入れられるところと、とことん頑《かたく》なになるところがあるらしい。  クラスはここがアリエスの頑《かたく》なになるところだとなんとなくわかる。  だから、勝てる賭《か》けを持ちかけている側《がわ》の優越《ゆうえつ》感からか、意地を張るアリエスがとても可愛《かわい》く見えた。 「う、浮かんでいたら……」 「浮かんでいたら?」  笑いながらアリエスのことを見つめると、アリエスも段々自信がなくなってきたのか、うつむきがちになって目をそらした。  ただ、逃げるような卑怯《ひきょう》なことをしないのがアリエスのいいところだ。  上目遣《うわめづか》いに、小さくこう答えた。 「謝《あやま》ります」 「じゃ、約束ね」  クラスは、アリエスが謝ってきて、それを広い心と笑顔で許すところを想像してにやついてしまった。  アリエスの優位に立つことがなかなかできなかったので、今から楽しみだ。  そんなことを思いながらふわふわした会話の余韻《よいん》に浸《ひた》っていると、ふとホロが立ち止まってこちらを見ていた。  またぞろなにかからかわれるのか、と警戒《けいかい》したのもつかの間、今までとは違《ちが》う妙《みょう》に真剣《しんけん》な顔をしていることに気がついた。 「せっかくの空気を台無しにしてしまうのは、わっちも心苦しいと思いんす」  そして、そんな言葉を短く言った。 「言えば焦《あせ》り、焦ればいらぬ怪我《けが》を招くと思って黙《だま》っておったが、そうも言っておれぬらしい」  クラスは嫌《いや》な予感がして、額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。 「追っ手が来ておる」 「え」  思わず呟《つぶや》いてしまい、アリエスも顔を上げた。 「で、でも、追っ手は来てないって……」 「うむ」  少し責めるような口調になってしまったクラスの言葉にも、ホロは特に気にするふうもなく普通《ふつう》にうなずいた。  ただ、それがホロの度量の広さというよりも、そんなことなど瑣末《さまつ》な問題なのだということを、そのあとに続けた言葉で知った。 「人の追っ手は、来ておらぬ」  数日前の、狼《オオカミ》の群れが脳裏をよぎった。 「おかしいとは思っておった。こんな大きくて立派な森じゃ。それなりに森の主はいる。それが出てこないとは……。それに、わっちらを追っていた連中も、突然《とつぜん》引き返したとも思えぬ。つまり」  ホロはぐるりと辺りを見回し、むせ返るような緑の匂《にお》いがする中で、大きなため息をついた。  ホロが、子供のように唇《くちびる》を突《つ》き出した。 「森の住人に、惑《まど》わされたか、あるいは」  その言葉に、誰《だれ》かが唸《うな》っている。  クラスはそう思って、それが頭上から聞こえてきた雷《かみなり》の音だと気がついた。 「森の、住人?」  不安と恐怖《きょうふ》を前に黙《だま》っていられず、とにかく質問を口にしたが、ホロは首を横に振《ふ》るだけでまともに答えてくれはしない。  ほとんど独《ひと》り言《ごと》のように口を開いた。 「わっちゃあ賢狼《けんろう》じゃからな。大抵《たいてい》のことは知恵《ちえ》と言葉でわがままを通すが、連中は要らぬ知恵をよく持っておる。さっさと森を抜《ぬ》けたいが……。それに、さすがのわっちも天気だけはどうにもならぬ」  ホロが頭上を見上げて呟《つぶや》き、クラスはうなずく前に隣《となり》のアリエスを見た。その手を、少しだけ力を込めて握《にぎ》る。 「もしかして、鹿《シカ》、ですか?」  その言葉に、ホロは目を軽く見開いて、それから、うなずいた。 「見かけたのかや」 「はい。水を汲《く》んだ時と、ついさっきも。じっとこちらを見ていて、少しも動かないで」  ホロは眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せ、頬《ほお》を掻《か》く。  尻尾《しっぽ》が、不機嫌《ふきげん》そうに揺《ゆ》れていた。 「連中は陰険《いんけん》じゃからな。なにをしてくるかわからぬ。注意しろと言ってもどうにもならぬが、知らずにいきなり不意を突かれるよりはましじゃろう?」  ぽつりと呟くような言葉に、アリエスが身をすくめてクラスのことを見てくる。  ホロが強気なことを言わないところに、合わせて自分までもが不安になっていたら誰《だれ》がアリエスを守るのだろうか。  クラスは両足の踵《かかと》に力を込めて踏《ふ》ん張って、無理やりに笑ってこう言った。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。鹿より、狼のほうが強いです」  上手に笑えたか怪《あや》しかったが、その代わりにホロが軽く吹《ふ》き出して笑ったので、うまくいったのだろう。  くしゃりと頭を撫《な》でられて、アリエスの前で少し決まりが悪かったが、少し嬉《うれ》しかった。 「人の仔《こ》の成長は実に早い」  その言葉は、ホロがアリエスを見ながら言ったものだ。  なぜアリエスに、とは思ったが、アリエスは首を縦にも横にも振《ふ》らなかった。  ただ、少しだけなにかを我慢《がまん》するような顔で、ホロのことを見つめ返していた。 「ま、どうにかなるじゃろ。雨も、わっちらだけの災《わざわ》いではない」  アリエスの表情に不敵な笑《え》みを返したホロは、言って、一度頭上を見上げた。  濃密《のうみつ》な葉っぱの傘《かさ》も、そろそろ限界のようだ。  雨漏《あまも》りだらけの小屋の中のように、雫《しずく》が頻繁《ひんぱん》に落ち始めてきた。 「さて、行こう」  ホロは言って、歩き出した。  声の調子とは裏腹に、その足取りには、焦《あせ》りが見えた。  はっ、はっ、はっ。  三度息をついてから、弱音《よわね》を飲み込むように喉《のど》を動かした。  それからまた三度息をついて、というのをもう何度|繰《く》り返しただろうか。  重荷になるぶどう酒はとっくに捨て、皮袋《かわぶくろ》にせっかく詰《つ》めなおした水も半分以上を捨ててしまっていた。  いよいよ雨が本格的に森の中にも降り始め、アリエスは足に絡《から》まるローブを脱《ぬ》ぎ、頭の上からの覆《おお》いにしていた。  つい先ほどに交《か》わした会話の楽しい余韻《よいん》などもうどこにもない。  その表情からは、覆いにしているローブですら捨てて身軽になりたいという気持ちが読み取れた。  足がもつれて崩《くず》れるように膝《ひざ》をつく回数も、もう両手の指では足りないくらいになっている。  アリエスはとても頑張《がんば》っている。  でも、その気丈《きじょう》さの中にもすがるような色がまざり始めてきて、それが余裕《よゆう》のないクラスには喜びよりも重荷になってきた。 「頑張って」  手を取るというよりも、腕《うで》を取って引き起こすたびに口にする言葉も、励《はげ》ましではなく祈《いの》りに近いものになっている。  アリエスの足がもつれ始めたのはなにも疲《つか》れのせいだけとは思えなかった。  きっと足には肉刺《まめ》ができてとっくにつぶれているのだろう。  雨脚《あまあし》はどんどん強まり、まるで川の浅瀬《あさせ》を歩いているような錯覚《さっかく》に陥《おちい》ってくる。  あちこちに小さな川ができて、ちょっとしたくぼ地には緑に囲まれた茶色の池が無数にできていた。  早く町に着いて、暖炉《だんろ》の火に当たりながら温めた麦の粥《かゆ》をすすりたい。  一歩歩くごとに、追っ手から逃《に》げるとかアリエスを護《まも》るだとかいう考えが耳から溶《と》け出していく。  いつまで経《た》っても森は終わらず、空を分厚い雲が覆《おお》い、さらに生《お》い茂《しげ》る木々のせいで森の中はかなり薄暗《うすぐら》くなってきている。  夜に雨が降る森の中を行くことほど恐《おそ》ろしいことはない。  いざとなれば自分がついているから、と言ったホロがなにか明快な解決をもたらしてくれる素振《そぶ》りはまったくない。 「ホロさん!」  ついに、森の中の開けた場所に出た時、クラスはその名を呼んだ。 「……」  無言で振《ふ》り向いたホロも肩《かた》で息をしている。疲《つか》れた様子が窺《うかが》えた。 「もう……」  歩けないです、とは最後まで言わず、今にも座り込みそうなアリエスを支えながら、クラスはホロのことを見た。  ホロは何百年と生きているらしい精霊《せいれい》様で、いざという時はどうにかしてくれると自信満々に言っていた。  今がそのいざという時じゃないのか。  そう目で訴《うった》えかけると、じっとクラスのことを見つめ返していたホロが、雫《しずく》の垂《た》れる前髪《まえがみ》を掻《か》き上げ、視線を下げた。 「すまぬ」 「え?」  進まぬ、の聞き間違《まちが》いかと思っていると、ホロはもう一度言った。 「すまぬ」  ぽかんと立ち尽《つ》くしたクラスは、辛《つら》そうにもたれかかってくるアリエスの体を抱《だ》きながら、聞き返した。 「な、なにが、ですか?」 「ぬしらを助けられぬかもしれぬ」 「そっ——」  言いかけて、言葉は途切《とぎ》れた。  アリエスがその場に崩《くず》れ落ちたからでも、ホロが悲痛な面持《おもも》ちで唇《くちびる》を噛《か》んだからでもない。  なにか得体の知れない寒気《さむけ》が、地面から足を伝って背骨をそっくり抜《ぬ》き取っていきそうなほど強烈《きょうれつ》に駆《か》け抜けたからだ。  決して弱くない雨が降り続ける中で、異様な音を聴《き》いた。  ごぶり、とも、ずぶり、とも聞こえる、大雨の日にあふれ返る泉のような音。  それは、恐怖《きょうふ》の湧《わ》き出る音だったのかもしれない。  疲《つか》れの中でその音に気がついたらしいアリエスが身をよじるようにして振《ふ》り向き、途端《とたん》に息を飲んだのがわかった。  クラスは怖《こわ》くて振り向けない。  振り向けないが、見ないままじっとしていることのほうがもっと怖かった。 「……」  そして、振り向いた先にあったもの。  なにかがいたとはとても思えない。  それは、そこにあったのだ。  巨木《きょぼく》のように。大岩のように。あるいは、山のように。 「……あ……」  膝《ひざ》が震《ふる》え、息が止まり、すがりついてくるアリエスに逆にすがりつく。  格好悪いとか、情けないとかいう判断はまったく存在しなかった。  視線の先には、牛すら軽く踏《ふ》みつぶせそうな、見上げるばかりの巨大な鹿《シカ》がいたのだ。 『——』  なんと言ったのかわからない。  ただ、その声は洞穴《ほらあな》の中で雷《かみなり》が鳴っているような声で、クラスの理性を奪《うば》うには十分すぎた。  およそ鹿とは思えないごつごつとした体つきに、黒い月のような二つの眼《め》。  それから、頭に生えた、天を突《つ》き刺《さ》すかのような大きな角。  クラスは尻餅《しりもち》をついてしまっても、しばらくそれに気がつかなかった。 『——。———』  牙《きば》がない鹿の口は、代わりに石臼《いしうす》のような歯がずらりと生え揃《そろ》い、喋《しゃべ》るたびにごつりごつりと岩でもすりつぶせそうな硬質《こうしつ》な音を立てている。  こんなのに頭を挟《はさ》まれれば、一瞬《いっしゅん》のうちにつぶされてしまうだろう。  クラスは阿呆《あほう》のようにその顔を見上げながら、そんなことしか頭に思い浮かばなかった。 「良き旅とは」  はっと我に返ったのは、そう言って、クラスの肩《かた》に手を置いた者がいたからだ。 「良き伴侶《はんりょ》に恵《めぐ》まれたもののこと」  見上げるホロの横顔はとても精悍《せいかん》で、その尻尾《しっぽ》は雄々《おお》しく揺《ゆ》れていた。  巨鹿《キョジカ》は視線をホロに向け、威圧《いあつ》するように顔を近づけて続けた。 『——ッ!』  強烈《きょうれつ》な鼻息が森の中の雨を全《すべ》て吹《ふ》き飛ばし、一瞬、雨がやんだ。  気がつけば、辺り一帯で鹿《シカ》の群れがこちらを見つめていた。  間違《まちが》った受け答えをすれば、すぐにでも踏《ふ》みつぶされるか頭を噛《か》み砕《くだ》かれるかしそうな雰囲気《ふんいき》。  それでも、ホロは少しも怯《ひる》まずに不敵に笑った。 「——、——」  ざわりと辺りがざわついたのは、ホロの言ったなにかわからない言葉を挑発《ちょうはつ》だと巨鹿《キョジカ》が受け取ったからかもしれない。 『——……——』  がこっがこっと歯を鳴らして巨鹿が詰《つ》め寄り、クラスは尻餅《しりもち》をついたまま後ずさった。  呆然《ぼうぜん》とするアリエスを引き寄せたのは、アリエスを助けるというよりも、抱《だ》きつくものが欲しかったからだ。  ホロが振《ふ》り向き、口早に言った。 「こやつらは、どうやらわっちのことが気に食わぬらしい」  首を軽くかしげ、困ったように笑いながら耳を振る。 「わっちが連れてきたのが裏目に出た」 『ヴオォォォォォォォォ!!』  およそ生き物の声とは思えぬ、大地が震《ふる》えるような咆哮《ほうこう》を巨鹿が上げた瞬間《しゅんかん》だった。 「別れはいつも急じゃな。楽しい旅じゃった。ぬしらだけさっさと逃《に》げ——」  その、申し訳なさそうな笑顔《えがお》がいつまでも脳裏に焼きついていた。  なにが起こったのか把握《はあく》するのにどれくらいの時間が必要だったのか。  少なくとも、距離《きょり》的にはかなりあったはずの鹿が、一瞬で間合いを詰めたかと思うと、ホロの小さな体を鼻ですくい上げて撥《は》ね飛ばした。ホロの体は簡単に宙を舞《ま》い、巨鹿はその巨体からは想像もできないような俊敏《しゅんびん》な動きでホロのことを追いかけた。  ホロの体は木の枝を薙《な》ぎ、なにかの冗談《じょうだん》のように飛んでいく。  そして、その先は沢にでもなっているのか、急な坂。  巨鹿が体を跳躍《ちょうやく》させ、坂などものともせずに飛んでいく。  あっという間にその巨体が坂の下に飛び降り見えなくなると、直後に、比喩《ひゆ》ではなく地面が揺《ゆ》れた。巨鹿が着地したのだとわかった直後、あの巨大な石臼《いしうす》のような歯を噛《か》み合わせるごつりごつりごつりという大きな音が響《ひび》いた。  クラスは自分が泣いているのかわからなかった。  ただ、なにか恐《おそ》ろしい、考えたくもないことが起こっているのだということだけはわかった。  ごつりごつりという音は続き、やがて、静かになった。  クラスたちを囲んでいる鹿たちは微動《びどう》だにしない。  直後、再び咆哮《ほうこう》が聞こえた。 「うああああああ!」  クラスは、悲鳴を上げて泳ぐように走り出した。  自分たちよりも二百|歳《さい》は年上だと言って、狼《オオカミ》を追い払《はら》ってくれて、クラスをからかったり頑固《がんこ》なアリエスをあっさりと言いくるめたり、パンをくれたりお金のことを教えてくれたり、小さいのに頼《たの》もしい背中をしていたホロが、一瞬《いっしゅん》のうちに消えた。  それはクラスがなにもかも忘れて逃《に》げ出すのに十分だった。  川のように水が流れる道を力の限りに走る。  少なくともそれしか頭になく、実際は体を起こして少し走ってはつんのめって転び、転んでは杖《つえ》代わりの棒にすがりつくようにして体を起こしていた。  死にたくない、あんな歯に挟《はさ》まれて死にたくない。  膝《ひざ》が笑い、腰《こし》が抜《ぬ》けて顔からまっすぐ泥水《どろみず》の中に突《つ》っ込んだ。  死にたくない。  恐怖《きょうふ》が泥水の中から顔を起こさせ、後ろを振《ふ》り向かせた。  そして、目に入ったその光景。  悪夢の底から顔を出す呪《のろ》われた馬のように、坂をゆっくりと上《のぼ》りきろうとしている巨鹿《キョジカ》と、取り残された白くて丸い小さな姿。  泥にまみれていても遠目には羊のようにしか見えない、アリエスの姿。 「アリ……エス……!」  かすれて声が声にならない。  逃げて、立ち上がって逃げて、と祈《いの》っても、アリエスの足に突然《とつぜん》羽が生えるわけでもない。  アリエスは気を失っているのか、それともいつものごとくなにが起こっているのか理解しておらずにぼんやりとしているのか。  ぼんやりとしているのであればそれでいい。恐怖に泣いてなければそれでいい。  なぜかそんなことを思った直後、クラスの顔はあまりにも情けなく歪《ゆが》んでしまった。  振り向いたアリエスの顔は、怯《おび》えていたからだ。 『ヴオォォォォォォ』  巨鹿が三度《みたび》咆哮《ほうこう》を上げた。  あまりにも体が大きく、坂が軽く崩《くず》れたようでその体がわずかに坂の向こうに隠《かく》れた。  それに腹を立てての咆哮らしい。  今なら、今ならまだ大丈夫《だいじょうぶ》。  立ち上がって、こっちに、十歩走ってくればいい。  クラスは胸中で叫《さけ》び、一向に立ち上がろうとしないアリエスに張り裂《さ》けそうなほどの怒《いか》りと焦《あせ》りを覚えていた。  いや、わかっていた。  その怒《いか》りと焦《あせ》りは、すぐに助けに行けない自分を責めているのだと。 『——……! ——……!』  巨鹿《キョジカ》がなにかを叫《さけ》んでいる。  クラスは耳をふさぎ歯を鳴らした。  ずっとクラスたちのことを見つめていた鹿の群れが、わずかに包囲を狭《せば》めてきた。  森から追い立てるように。  あるいは、逃《に》げきれぬ者を森の中に永遠に閉じ込めるかのように。 「アリエス!」  ついに声にして叫ぶことができたのは、それが最後になると思ったからだ。  巨鹿が坂の上に大きな前足をかけ、山を踏《ふ》みつぶすかのような動きで体を持ち上げた。  アリエスがそれに気がつき、一度後ろを振《ふ》り向いた。  そして、再度クラスのほうを見て。  ゆっくりと、手を伸《の》ばしてきた。 「クラス……」  そう、囁《ささや》くように呟《つぶや》いたのが聞こえた、ような気がした、直後だった。  巨鹿がゆっくりと前足を振り上げ、ぱっと見にはおよそ届きそうにない距離《きょり》が開いているにもかかわらず、その足が振り下ろされる先には確実にアリエスがいて、足に絡《から》まった草やまとわりついた泥《どろ》がぼたぼたと醜悪《しゅうあく》な音を立て、アリエスの後ろに死神の涎《よだれ》のように降り注ぐ。  アリエスの目が、こちらを見ていた。 「アリエス!」  考えて走ったわけではない。  走っているのか、それとも自分が空を飛んでいるのかもわからなくて、アリエスのことしか目に入らず、そのまま、飛びつくように抱《だ》きついて、どんなふうにしたのか自分でもまったくわからないうちに抱き上げて飛び退《すさ》っていた。  次の瞬間《しゅんかん》に、とても目を開けていられないほどの衝撃《しょうげき》を伴《ともな》って鹿の前足が振り下ろされ、ありとあらゆるものが飛び散った。 「……」  自分の腕《うで》の中にいるアリエスが、あの場にいなかったことが奇跡《きせき》としか思えない。  アリエスを抱えたまま前のめりに走り、多少距離を稼《かせ》いだところでついにすっころんだ。  クラスが慌《あわ》てて体を起こすと、アリエスは体を震《ふる》わせ、口を引き結び、両手を組んで祈《いの》っていた。  祈りながら、クラスに気がつくと、その額を、クラスの胸に当ててきた。  その柔《やわ》らかい肩《かた》を反射的に抱きしめて、クラスはさらに力を込めた。  護《まも》らなければ。  こんなにも。  こんなにもアリエスの肩は柔《やわ》らかいのだから。 「大丈夫《だいじょうぶ》」  呟《つぶや》いて、深呼吸を一回。  一本一本が縄《なわ》でできているかのような剛毛《ごうもう》でびっしりと体が覆《おお》われているのがよくわかる距離《きょり》。それでも多少は離《はな》れているはずなのに、文字どおり見上げるばかりの巨鹿《キョジカ》がぎょろりと瞳《ひとみ》を向けてきた。  ごつっごつっと歯を打ち鳴らし、頭を振《ふ》る。  英雄《えいゆう》は拳《こぶし》一つで岩を割り、剣《けん》があれば竜《りゅう》さえ倒《たお》すが、クラスの手にあるのはどうやって持ち続けていることができたのか、杖《つえ》代わりの木の棒だけ。それでもどうにかなるはずだ。アリエスを一人|逃《に》がすくらいならどうってことないはずだ。  勇気は抱《いだ》くものではない。菜種の油を搾《しぼ》るように、無理やりにひねり出すものなのだとクラスは初めて知った。 「アリエス、立てる?」  腕の中で震えていたアリエスが顔を上げ、おとなしいくせに頑固《がんこ》なところがあるアリエスらしく、唇《くちびる》を噛《か》みながらうなずいた。 「なら、僕の後ろに」  なぜ、とは聞かずに、代わりにこれ以上ないくらいに心配そうな顔をしたが、結局言葉は出さなかった。  巨鹿を刺激《しげき》しないように静かに体を動かして、クラスの後ろに回り込む。 「僕が、立ち上がったら、すぐに走って」 「え、で、でも」 「大丈夫。僕は巨人を倒した英雄の話を知っているから」  嘘《うそ》じゃなかった。  頭は天に届き、腕《うで》は川のように長く、足はどんな湖でも入りきらないほどにでかい巨人を倒した英雄の話。  それに比べれば、大きいだけの鹿なんてどうってことはない。  どうってことないのだ。 「目を狙《ねら》う。あの大きな目。目が見えなくなれば追いかけてこられないはず。大丈夫。あんなに目が大きいんだから、簡単に当たるよ」  クラスは言って、頬《ほお》と唇を動かした。  うまく笑えたかはわからなかった。  それでも、アリエスがなにかを言おうとして、考えて、やめて、ゆっくりとうなずいたので、きっと上手に笑えたのだ。 「じゃあ、いくよ?」  杖《つえ》を地面に突《つ》き立て、大きく息を吸い込んだ。  アリエスの手が背中に当てられ、そこから力がみなぎってくるかのようだった。  巨鹿《キョジカ》はこちらの覇気《はき》を感じたのか、首を振《ふ》り、ゆっくりと体を沈《しず》める。  その恐《おそ》ろしいまでの威圧《いあつ》感。  話の中の英雄《えいゆう》は、こんなことを恐れない。 「海を、一緒《いっしょ》に見よう」  そう言い残して、立ち上がり、走った。  あまりにも大きな巨鹿の目はとても棒が届きそうな高さにはない。  しかし、機会はあるはずだ。  ホロにそうしたように、きっと顔を近づけてくる瞬間《しゅんかん》があるはずだ。  巨鹿が大きな足を振り上げると、空気までもが引っ張られるかのような感覚がある。  クラスはそれに飲まれず真横に飛んだ。  鹿は所詮《しょせん》鹿だ。  振り上げた足をそのまま下ろし、クラスの真横で泥《どろ》を撥《は》ね飛ばした。 「この!」  棒を大振りに振ると、巨鹿は驚《おどろ》くほど俊敏《しゅんびん》に振り下ろした足を引いた。  たたらを踏《ふ》んでつんのめるが、クラスは少しも慌《あわ》てない。むしろ巨鹿が自分のことを恐れているというその確信に胸の奥が冷えて硬《かた》く固まった。  今度は足を振り上げず、石ころでも蹴飛《けと》ばすかのように足を前に出してきた。  しかし、巨体が災《わざわ》いしてか、ゆっくりとしたそれを難なくかわす。  なんてことはない。全然なんてことはない。  ただ、図体《ずうたい》がでかいだけの鹿だ。  渾身《こんしん》の力を込めて振り回す棒が幾度《いくど》か鹿の足をかすった。  信じられないことだが、この巨大な鹿と互角《ごかく》に戦えていたのだ。  巨鹿は大きな歯の間から真っ白な息をもうもうと噴《ふ》き出している。クラスがちょこまかと逃《に》げるので疲《つか》れているのかもしれない。あまりにも体が大きすぎるのだろう。  クラスも疲れていた。棒を握《にぎ》り締《し》める手の感覚はとっくになく、腕《うで》の筋肉はがちがちに硬《かた》くなっていてどこまでが棒でどこまでが自分の腕かわからないくらいだった。  巨鹿とまっすぐに、飛びかかれば届かんばかりの距離《きょり》で対峙《たいじ》した。  その角を粉にして飲むと森の知恵《ちえ》を手に入れられるという鹿の化け物は、深淵《しんえん》の闇《やみ》のような目でじっとこちらを窺《うかが》っている。  なにかを考えていた。  なにを考えている?  クラスがそう思った直後、鹿《シカ》の目がぎょろりと向いた。  その先には、腕《うで》を組んで祈《いの》っているアリエスの姿。  クラスは胃の中身を吐《は》き出しそうになる。アリエスは逃《に》げていなかった。いや、逃げるだけの体力がもうなかったのかもしれない。  アリエスが、巨鹿《キョジカ》の視線に気がつく。  巨鹿が動いた。首をアリエスのほうに向け、馬のように三度前足で地面を蹴《け》り、鼻面《はなづら》を下げた。 「——っ!」  自分でなんと言ったのかわからない。  後ろから誰《だれ》かに突《つ》き飛ばされたかのように、体が動いていた。  片手で棒を持って、全速力で走った。木の根っこや水溜《みずたま》り、それに鹿が踏《ふ》みあけた穴などがいくらでもあったが、クラスはそれらのことなどまったく見ないで、ただ鹿の目だけを見て走っていた。  そして、山が丸ごと動くかのように飛び出そうとしたその顔に向けて、渾身《こんしん》の力を込めて飛びかかった。  右手に持つ棒を、英雄《えいゆう》が巨人の目に突《つ》き刺《さ》した槍《やり》のように、振り投げながら。 「ぉおおおお!」  ぼきっという鈍《にぶ》い音がした。  それは右腕のあたりから聞こえ、腕が折れたのだと思った。  着地の体勢など露《つゆ》ほども考えていなかったので、クラスは巨鹿の顎《あご》の下をかすめて、まっすぐ薮《やぶ》の中に突っ込んだ。  一瞬《いっしゅん》気を失いかけたが、意識を保てたのは、背後でなにか大きなものが倒《たお》れるものすごい轟音《ごうおん》を聞いたからだ。  巨鹿は痛みにもだえ苦しんでいるのか、身の毛もよだつような咆哮《ほうこう》を上げてどすんどすんと足を鳴らしている。  ひとしきりもがいたあとに顔を上げれば、立ち上がろうとして足を滑《すべ》らせている巨鹿の向こうで、呆然《ぼうぜん》とそんな鹿を見つめているアリエスの姿があった。 「アリエス!」  クラスが名前を呼んで駆《か》け寄ると、アリエスはびっくりしたようにクラスのことを見てから、また巨鹿に目を戻《もど》していた。 「アリエス、早く逃げよう!」 「で、でも、この方、目、目が……」  つい今しがた、ホロを殺し、自分のことも殺そうとした巨鹿の目を心配するなど、怒《いか》りを通り越《こ》してそのお人好《ひとよ》し加減に笑えてしまう。  でも、まったく腹は立たなかった。  これが、アリエスなのだ。 「早く、追いかけられたら、もう、どうしようもない!」  クラスが言い終えるのと、巨鹿《キョジカ》が一際《ひときわ》大きな咆哮《ほうこう》を上げたのは同時だった。  ぎょっとして振《ふ》り向くと、巨鹿が足を踏《ふ》み外して沢《さわ》を滑《すべ》り落ちたのだとわかった。  山崩《やまくず》れのような音を響《ひび》かせたあとに、腹に響く大きな音がした。 「ははは、やった! ほら、アリエス、行こう!」 「え、あ、で、でも……」  アリエスに駆《か》け寄り、その手を引っ張るが、アリエスの腰《こし》は上がらない。  その顔は、地面に足が埋《う》まっているのを困っているようにも見えた。 「歩けないの? ほら」  クラスはてっきり折れていたとばかり思っていた右|腕《うで》をアリエスの右腕の下に通し、体を引き寄せるとその両|膝《ひざ》の下に左腕を通した。  英雄《えいゆう》は、常に姫《ひめ》をこうやって簡単に抱《だ》きかかえる。  アリエスは困惑《こんわく》しながらも、何度も練習したかのようにすんなりとこちらに体を預けてきた。 「く、うっ」  岩のように固く縛《しば》られた藁束《わらたば》に比べればアリエスの体など綿のようだ。  とはいうものの、とても走るのは無理で、がくがく震《ふる》える膝を叱咤《しった》しながらクラスが一歩二歩と歩き出す。  このままアリエスを抱《かか》えて、鹿から逃《に》げきって、森を出て、町に入る。  ずる、ずる、とアリエスの足がずり落ちていく左腕に、歯を食いしばって力を込めて、クラスは胸中で呟《つぶや》いた。  ホロのことはとても残念だった。  からかわれるのは嫌《いや》だったけれども、まるで突然《とつぜん》できた姉のようだった。  町に着いて、体力が回復したら、死体を探しに来て、埋《う》めてあげようと思った。もちろん、もう一度鹿に会ったら今度は目だけではすまさない。  ほとんどアリエスの足がずり落ちて、その足が地面についているのに左腕にはまったく力が入らず、足は木の根っこでからめとられているかのように重く、まったく動かなかった。  それでもクラスの頭の中には、クラスが描《えが》ける最高の未来があって、それに向かって着実に前進しているつもりだった。 「も、もう、もう……」  なんとかクラスの体にしがみついているアリエスは泣きそうな声で言い、クラスは小さく笑って、ついに立ちどまって答えた。 「ごめん。先に、逃げて」  それが残されていた最後の体力だったようで、その場に崩れ落ちてしまった。  どしゃ、という音もどこか遠くから聞こえているようで、顔が半分|泥水《どろみず》の中に埋《う》まっていても、もう身動き一つ取れなかった。 「——っ——っ」  アリエスがなにかを叫《さけ》んでいるようでも、もうまったく聞こえない。  ただ、上から落ちてくる雨がお湯のように熱かった。  クラスは、「逃《に》げて」と呟《つぶや》いた。  先に逃げて。あとで町の宿屋で再会しよう。  遠のいていく意識の中で、そう言ったつもりだった。  せめて、アリエスだけは。  だって。  クラスは、目を閉じた。  だって、こんなにも、アリエスのことが好きなのだから。     ★  甘い匂《にお》いがする。  なんの食べ物だっただろうか。  思い出せそうで思い出せない。  なにか大好きなものの匂いだということだけはわかるのに、なんの匂いだかまったく思い出せない。  それに、ここはどこだろうかという疑問もあった。  真っ暗で、なにも見えない。  体は動かず、とても重い水の中に沈《しず》んでいるようだった。  それでも、甘い匂いが頭の中の色々なものをあっさり覆《おお》い尽《つ》くしてしまい、そんな疑問もどうでもよくなった。  ずっとこの甘い匂いの中にいられればいい。  この、甘い……。 「えっ」  クラスが飛び起きた瞬間《しゅんかん》、短い悲鳴が上がった。  ぐるっぐるっとあらん限りに首を回して、ろくすっぽ焦点《しょうてん》の定まらない目で懸命《けんめい》にそれを探す。  それが見つかった時に泣きそうになってしまったのは、きっと、急に飛び起きて目を開けたからだ。 「アリ、エス……」 「お、おはようございます」  固唾《かたず》を飲むように、変に身構えるようにアリエスはそう言って、それから、そっと手を伸《の》ばしてきた。 「お体は……大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」  その白い手が頬《ほお》に触《ふ》れて、激痛がして呻《うめ》いてしまう。  直後、火にでも触れたかのようにアリエスが手を引っ込め、泣きそうな顔で謝《あやま》ってくる。  クラスは自分の顔に触れてみる。  あちこち腫《は》れているし、自分の手も擦《す》り傷《きず》だらけだった。 「はっははは、ずたぼろ」  そう言って笑うと顔中が引きつったが、アリエスは心配そうにしていた顔をゆっくりと笑顔《えがお》に変えて、声を出して笑い、それから泣いてしまった。 「わ、あ、ちょ、ねえ、な、泣かないで」  クラスは慌《あわ》ててそんなアリエスの両|肩《かた》を抱《だ》いて、頭を撫《な》でてやる。  なんにも考えないですんなりとこんな行動を取ってしまった自分にびっくりしつつ、アリエスが少しも嫌《いや》そうにしなかったのがとても嬉《うれ》しかった。 「大丈夫だから。ほら、ね?」  ひっくひっくと泣くアリエスをなだめるように言うと、アリエスは何度もうなずいて、それからまた泣いた。  なにがなんだかわからないが、とりあえず泣きやむのを待つしかない。  それに、とクラスはようやく辺りのことが目に入って思った。  ここはどこだろうか。  明かりが背中から入ってきていて、目の前にはうっすら苔《コケ》の生えた黒い木の壁《かべ》のようなものがある。見える範囲《はんい》で視線を巡《めぐ》らせると、どうやら洞穴《ほらあな》のようにも見えるが足元には干草《ほしくさ》が敷《し》き詰《つ》めてある。少なくとも町ではない。  一体どういうことなのか。  そう思った直後だった。 「む」  聞きなれた声がした。 「え」  無理に振《ふ》り向こうとしたら、しがみついていたアリエスのせいで体勢が崩《くず》れ、あっという間に後ろ向きに倒《たお》れてしまった。 「痛つつつ……」  と、体を起こそうとしたものの、倒《たお》れてもなおアリエスはクラスにしがみついたままで身動きがとれない。それに、ちょっともったいない気がしたのだ。細身に見えても意外にしっかりしているアリエスの体の重みの下で、クラスは仰向《あおむ》けのままぼんやりと視線を天井《てんじょう》に向けていた。そんな折にひょいと視界に入ったそれ。信じられない顔が、逆向きにこちらを見下ろしていた。 「んふ。お楽しみの最中だったかや」 「あ、あ、あ」 「なんじゃ、目覚めの抱擁《ほうよう》は一人じゃ物足りぬと?」  そんな相変わらずの言葉など右から左に聞き流し、クラスは思いきり胸中の言葉を口から吐《は》き出した。 「ホロさん!」 「……そんな声出さんでもよく聞こえる」  顔をしかめられてもクラスは一向に気にせず、さらに言葉を続けた。 「で、でも、なんで、あの、ホロさんは……」 「死んだとでも?」  その笑顔《えがお》はあまりにも不敵で、殺したって死にそうにないように見える。  それでも、クラスの耳には、あの身の毛もよだつ石臼《いしうす》同士がぶつかるような音が鮮明《せんめい》に残っている。  てっきりホロは噛《か》みつぶされて死んだのだと思っていた。 「くっく。だ、そうじゃ」  ホロが言って振り向くと、ふと明かりが翳《かげ》った。  その時の驚《おどろ》きは、どう表現したらいいのか、クラスにはまったくわからなかった。  ホロの後ろ、洞穴《ほらあな》の入り口にぬっと現れたのは、クラスたちを殺そうとした巨鹿《キョジカ》だった。  クラスがつぶしたはずの目は磨《みが》き上げられた黒曜石《こくようせき》のように綺麗《きれい》なままで、そのあまりにも大きな目とクラスの目が合うと、挨拶《あいさつ》代わりか一度|瞼《まぶた》が閉じられた。 『勇気……ある……人の子。何、百年……ぶりにか……たの、楽しませて、もらった』  不器用に喋《しゃべ》り、いびつに口が歪《ゆが》んだ。  それが笑顔だったと気がついた直後、クラスは胸がかっと熱くなった。 「ま、まさかっ……!」  アリエスの両|肩《かた》を押し上げる。その顔は涙《なみだ》に濡《ぬ》れていて、そして、申し訳なさそうな顔をしていた。 「たわけ、ぬしは誰《だれ》を責めるつもりか」  頭を小突《こづ》かれて目をホロに向ける。あの巨鹿は顔を引っ込めたのか、いなくなっていた。 「ま、ちょっと予定外だったのは、鹿共が暇《ひま》に飽《あ》かせて芝居《しばい》に凝《こ》りすぎたところじゃ。まったく、わっちも止めるに止められぬ」  ホロが困ったように笑いながら言うと、遠くから短い咆哮《ほうこう》が聞こえた。  すべてはホロが仕組んだことなのか。  そう言われると、そう思えてくる。  巨鹿の振《ふ》り下ろす足は遅《おそ》いのに、棒を避《さ》ける動作は機敏《きびん》だった。  でも、そうすると、巨鹿《キョジカ》が足を振《ふ》り上げた時、その下にいたアリエスが見せた顔も嘘《うそ》だったのだろうか。  クラスが裏切られたように感じて目を向けると、もう一度ホロに頭を小突《こづ》かれた。 「この状況《じょうきょう》でそれを疑うのかや、本当にたわけじゃな」  かなり強めに小突かれたので、頭がじんじんする。  その言葉から考えれば、アリエスのあの顔は本気だった。  巨鹿の演技だとわかっていても、本当に怖《こわ》かったのかもしれない。  クラスとしても、大丈夫《だいじょうぶ》だとわかっていても、あの迫力《はくりょく》の前には腰《こし》を抜《ぬ》かしたかもしれない。  それに、アリエスの顔は本当に申し訳なさそうな顔をしている。  それを見る限り、ホロがどの頃会《ころあい》かはわからないが話を持ちかけていたのだろう。  一人知らずに奮闘《ふんとう》していたのは、自分だけだったのだ。 「くっく。じゃが、まあ、ぬしは格好良かった。のう?」  ホロはしゃがみ込み、膝《ひざ》の上に肘《ひじ》を置いて、頬杖《ほおづえ》をつきながらにやにやと笑った。  視線の先には、アリエス。  アリエスは、目元を拭《ぬぐ》って、それから、うなずいた。 「黙《だま》っていて……ごめんなさい……ですが……」  喋《しゃべ》っている間にまた泣き出してしまった。  クラスはもう怒《おこ》る気など微塵《みじん》もなく、アリエスの手を取った。 「いいよ、もう。それより、無事でよかった……」 「……はい」  そして、うなずいた拍子《ひょうし》にぱたたっと涙《なみだ》が落ちて、クラスはそれがくすぐったかった。 「あっ」 「む?」 「それで、追っ手は?」 「追っ手?」  クラスが頭だけ上げて訊《たず》ねると、ホロが逆に聞き返してきて、しまった、とばかりの顔をした。 「ま、まさか、それも……」 「んふふふふ」  ホロは笑って尻尾《しっぽ》をふさふさと鳴らした。  アリエスに視線を向けると、また申し訳なさそうな顔をしていた。  頭を支えていた首から一気に力が抜《ぬ》け、地面にごんとぶつけた音がしたがもうまったく気にならなかった。 「さて、とりあえずこんな穴倉でいつまでも寝《ね》ておらず、外に出てきんす。外はそうそう人間がお目にかかれぬ森の聖域じゃ」  ホロは立ち上がって、首をこきりと鳴らした。 「森の、聖域?」 「うむ。なかなかに圧巻じゃったろう?」  その言葉はアリエスに向けてで、アリエスはしっかりとうなずいた。  よほどすごかったらしい。 「とっくに日も昇《のぼ》っておる。日向《ひなた》ぼっこしながら、ぬしの武勇伝を肴《さかな》に先のことでも考えるかや。もちろん」  ホロは腰《こし》に手を当てて、尻尾を振《ふ》った。 「三人旅の、な」  そしてにやりと笑うとひょいと立ち去ってしまった。  ホロが無事で嬉《うれ》しくないわけがない。  それでも、この先もこんな芝居《しばい》を仕組まれたりするのかと思うとげんなりした。  ただ、森の聖域とやらは見てみたい。  一体どういうところなのだろうか。 「森の聖域か。そんなにすごかった?」  アリエスに体を引き起こしてもらいながら訊《たず》ねると、しばし迷って、うなずいた。 「ふうん……」  ちょっと面白《おもしろ》くなかったのは、思うところがあったからだ。 「ですが」  アリエスは言って、まっすぐにクラスのことを見つめてきた。  どきり、と胸が痛んだのは、きっと怪我《けが》ではないはずだ。  その理由が今ではわかる。 「海のほうが、楽しみです」  そんなことを言われたら、もう、顔がにやけるのを我慢《がまん》することなんてできない。  クラスは顔が痛むのも忘れて笑い、うなずいた。  そう言った直後に、アリエスがちらりと窺《うかが》うような視線をクラスの後ろに向ける。クラスは後ろのほうで誰《だれ》かがこちらを見てうなずいているような気配を感じたが、気にしない。  お節介《せっかい》で頭のいい誰《だれ》かさんがアリエスにそう言えと言い含《ふく》めてあったのかもしれないが、アリエスの言葉にきっと嘘《うそ》はない。  それを信じるに足るくらいのものが、自分の中にはあった。 「じゃ、行こうか?」  アリエスの手を取って立ち上がる。  そして、振《ふ》り向いた拍子《ひょうし》にひょろりと尻尾《しっぽ》が陰《かげ》に引っ込むのが見えた。  柔《やわ》らかくて、ふさふさで、甘い匂《にお》いがする尻尾だ。ホロがやりすぎを詫《わ》びるように謝ってきたら、もう一度あの尻尾で眠《ねむ》らせてもらおうかと思ってしまう。  それくらいに、寝心地《ねごこち》が良かったのだから。  クラスは後ろを振り向いて、そんなことを胸中で呟《つぶや》いた。 「え?」  アリエスがそう聞き返してきたので思わず口から出ていたのかと驚《おどろ》き、しかし、なにも言わずに歩き出した。  アリエスの手をしっかりと握《にぎ》って、光あふれる洞穴《ほらあな》の外に。  二兎《にと》追う者は一兎をも得ずという。  でも、片方は狼《オオカミ》で片方は羊なのだから……。 「なにを考えているか当てましょうか?」  背後から、恨《うら》めしそうな冷たい声が聞こえてきた。  怖《こわ》くて振り向けない。  代わりに、視線の先では絵にも描《か》けない楽園のような陽だまりの中で、日向《ひなた》ぼっこをしながら聞き耳を立てていたらしいホロが、腹を抱《かか》えて大笑いしていたのだった。 [#地付き]終わり [#改ページ]  林檎の赤、空の青  突然《とつぜん》静かになった気がして、ロレンスは顔を上げた。  しかし、開け放たれた木窓からは暖かい日の光と共に活気に満ちた町のざわめきが相変わらず入ってきている。  一体どうして急に静かになったと思ったのか。目を落としていた羊皮紙の束を整えながら、こきりと首の骨を鳴らす。  原因が気になって視線を巡《めぐ》らせれば、すぐにそれは見つかった。  ベッドの上で口を拭《ぬぐ》っている少女。これが原因だろう。 「ずっと食べてたのか……。いくつ食べた?」  貴族も羨《うらや》むような綺麗《きれい》な亜麻《あま》色の髪《かみ》の毛を有した少女、ホロは、その頭についている人ならざる獣《けもの》の耳をひくひくと動かしたあとに、指折り数えてゆっくりと答える。 「十……七、いや、九かや」 「残りは?」  今度は、毛皮商が涎《よだれ》を垂《た》らして欲しがりそうな尻尾《しっぽ》を揺《ゆ》らして答える。  しかし、その様子は怒《おこ》られた仔犬《こいぬ》に近い。 「……は、はち」 「はち?」 「八十……一」  ロレンスがため息をつくと、ホロは表情を一変させてロレンスを睨《にら》みつける。 「全部食べると言っておる」 「まだなにも言ってないだろ」 「ならばそのため息のあとになにを言おうとした?」  わずかに間をあけてから、ロレンスは答えた。 「全部食べられるのか?」  キッと睨むホロの視線を受け流し、ロレンスは前に向きなおると羊皮紙の束を紐《ひも》でくくろうとして、左|腕《うで》が使えないことを思い出した。  先日の騒動《そうどう》の最中に、へまをしてナイフで刺《さ》されてしまったのだ。  けれども、その騒動のお陰《かげ》で旅の途中《とちゅう》に偶然《ぐうぜん》出会ったようなホロとの間に、金では買えない絆《きずな》を結べたと思っている。  それを考えれば安いものだ、と胸中で呟《つぶや》きながら椅子《いす》から立ち上がった。  部屋の隅《すみ》には文字どおり林檎《リンゴ》が山盛りになった木箱が四つ置かれている。請求書には林檎百二十個とあったから、それでも今日の分と合わせて三十九個食べたことになる。  いくら大好物とはいえ、腐《くさ》る前に食べきるのは容易ではないだろう。 「そんなに意地を張ることじゃないだろ?」 「張っておらぬ」 「本当に?」  重ねて問うと、ロレンスの何十倍も生きていて、麦に宿りその豊作を思いのままに操《あやつ》ることができるという御歳《おんとし》数百|歳《さい》の巨狼《きょろう》の化身《けしん》は、見たままの子供のようにそっぽを向く。  しかし、そのまましばしの間をあけると、やがてその狼《オオカミ》の耳がへこたれた。 「……本当は……飽《あ》きそうじゃ……」  笑うと絶対に怒《おこ》ると思ったので、「そうだよな」と同意する。 「いくら好物でも数が数だからな」 「じゃが」 「ん?」 「じゃが、絶対に食べる」  怒って睨みつけるのとは違《ちが》う、なにか悲壮《ひそう》な決意のようなものが感じられる視線を向けながらホロはそう言った。  そんな突然《とつぜん》の変化にロレンスは驚《おどろ》いてしまったものの、すぐにホロの気持ちに気がついた。  ホロは百二十個の林檎という決して少なくも安くもない果物《くだもの》を、承諾《しょうだく》なしに勝手にロレンスの名前で購入《こうにゅう》した。  しかし、それはホロが私利私欲のために買ったというわけではない。  奇妙《きみょう》なことだが、ホロがロレンスの金を盛大に無駄遣《むだづか》いすることは二人がこの先も旅をするのに必要なことだった。  元々は、とある麦の大産地の村に縛《しば》られていたホロが、故郷である北の地に帰るための道案内をロレンスに頼《たの》んだのが二人旅の発端《ほったん》だった。  しかし、なかなか単純な理由だけでは物事が進まないのが世の中というものだ。  ホロが林檎《リンゴ》を買ったことに対してロレンスはまったく怒《おこ》っていない。それどころか、実のところ林檎だけではなく、かなり高級な服まで勝手に買われていたのだが、それでもホロのその行動はロレンスにとって願ったり叶《かな》ったりなことだった。  ただ、お互《たが》いにそこのところを理解していても、実際に勝手に契約《けいやく》を進めたホロとしてはいくらか責任を感じているらしい。  ロレンスは旅する貴族のドラ息子《むすこ》ではなく、日々|埃《ほこり》にまみれて金を稼《かせ》ぐ行商人だ。  きっとそこのところを理解してくれているのだろう。  ホロは自らを賢狼《けんろう》と称《しょう》する。  しかし、まったく笑ってしまうくらいに気を砕《くだ》いてくれる狼《オオカミ》だった。 「ま、そんな気負わなくても大丈夫《だいじょうぶ》だろ」  山盛りになった林檎を一つ手に取り、ロレンスは続けて言った。 「生のままじゃいくらなんでも飽《あ》きるだろうが、林檎は色々食べ方があるからな」  そして、今にもはちきれそうなほどよく太った実を一口かじろうとして、ホロの視線に止められた。  食べきれなさそうなほどの林檎を前にしても、他人に食べられるのは許せないらしい。 「お前が身を滅《ほろ》ぼすとしたら、きっとその原因は林檎だろうな」  ロレンスが笑って林檎を放《ほう》り投げると、ホロはそれを受け取るや不機嫌《ふきげん》そうにかぶりつく。 「それで、色々な食べ方というのはなにかや」 「そうだな、たとえば焼いてみたりとか」  ホロはかじりついていた林檎から顔を離《はな》して、しげしげと見つめたあとに不機嫌そうな視線を向けてくる。 「わっちをからかうなら覚悟《かくご》はできておるのじゃろうな」 「お前の自慢《じまん》の耳は人の嘘《うそ》を聞き分けられるんだろう?」  その言葉に、指で弾《はじ》かれたように耳をぴんと張り、悔《くや》しげに唸《うな》る。 「林檎を焼くなど……わっちには想像できぬ」 「はは。まあそうだろうな。別に枝に突《つ》き刺《さ》して火であぶるわけじゃない。パンみたいにパン窯《がま》で蒸《む》し焼きにするんだよ」 「むう」  口で言われてもわかりづらいのだろう。ホロはもぐもぐと林檎を食べながら首をひねっている。 「林檎のパイとか食べたことないか」  その質問にも、首を横に振《ふ》る。 「そうだな。実物を見せるのが一番早いが、こう、焼くとしんなりするんだよ。たとえは悪いが、腐《くさ》ってぐずぐずになる一歩手前のように」 「ふむ」 「しかし、腐りかけのものがうまいように、焼いた林檎《リンゴ》もものすごくうまい。生のままの林檎は食べると喉《のど》の渇《かわ》きが癒《い》えるだろ? 焼いた林檎は甘すぎて余計に喉が渇く」 「ふ……ふむ」  と、平静を装《よそお》っているかのようだが、ホロの尻尾《しっぽ》は右に左にと大忙《おおいそが》しだ。  いつもはそのよく回る頭と口でロレンスのことを翻弄《ほんろう》しっぱなしでも、こと食べ物のこととなるととてつもなく弱い。  それに、口ではなんとでも言えても、耳と尻尾に如実《にょじつ》に感情が出てしまう。 「ま、元々がうまい林檎だからどんな調理をしてもうまい。しかし、甘いものばかりというのも飽《あ》きるだろう?」  ぴたりとホロの尻尾が止まる。 「塩の効いた肉と魚、どっちがいい?」  そして、間髪《かんはつ》いれずに返事がくる。 「肉じゃ!」 「なら、晩飯は——」  というロレンスの言葉が途切《とぎ》れたのは、ベッドから飛び降りていそいそとローブを身にまとおうとしたホロと目が合ったからだ。 「今から行くつもりか?」 「行かんのかや?」  あれだけ林檎を食べておいて一体その小さな体のどこに入るのかと呆《あき》れてしまうが、元の姿はロレンスすら丸飲みにできそうな大きな狼《オオカミ》だということを思い出す。  あまり考えたくないが、もしかしたらホロの胃袋《いぶくろ》は狼の時の大きさなのかもしれない。 「……改めて聞くが、本当に林檎は食べられるんだろうな?」 「ぬしの話を聞いて確信した。安心するがよい」  手早くローブを身にまとい、くるりと腰帯《こしおび》を巻くとあっという間に支度《したく》が出来上がる。  まだ昼を過ぎてさして時間も経《た》っていなかったが、ロレンスはおとなしく諦《あきら》めることにした。  きっと、説得は不可能に違《ちが》いない。 「用事もあるし、行くか。仕方ない」 「うん」  なにせ、ホロがそんなふうにうなずき、見たままの少女のように無邪気《むじゃき》に笑うのだ。  十八の頃《ころ》から七年間もずっと独《ひと》りで行商をしてきた身としては、こんなふうに笑われたら今更《いまさら》言葉を翻《ひるがえ》せるわけもない。  林檎《リンゴ》よりも甘い笑顔《えがお》の余韻《よいん》を残し、待ちきれないとばかりに扉《とびら》へと歩いていくホロの背中を見てそんなことを思った。  しかし、それがホロにばれればまたいいようにからかわれる。  ロレンスは小さく咳払《せきばら》いをして自分も外に出る準備をし、ホロのあとを追おうとしてはたと足が止まってしまった。  扉を開けたままのホロが、楽しそうにこちらを見ていたからだ。 「たまにはあんな笑顔もよいじゃろう?」  これから林檎の口直しに行くこととかけているのだろうが、まったく底意地が悪い。  ホロに続いて部屋から出ると、ロレンスは小生意気な狼娘《オオカミむすめ》に言ってやった。 「お前は本当に食えない奴《やつ》だな」  ホロは肩越《かたご》しに振《ふ》り向いて呆《あき》れるように言う。 「うまい、と言って欲しいのかや?」  降参を示してロレンスが肩をすくめると、ホロはけたけたと声を上げて笑ったのだった。  スラウド川の中流に位置する港町パッツィオは、どこもかしこも人だらけだ。  祭りでもなければ戦争の準備をしているわけでもないのに、たくさんの人間が忙《いそが》しそうに道を行き交《か》っている。  家畜《かちく》を連れた農夫、商品を背負った行商人、主人に使いを頼《たの》まれているのだろう小綺麗《こぎれい》な格好をした小僧《こぞう》、久しぶりに人のいるところに出てきたのか人ごみに戸惑《とまど》っている修道士の姿も見える。  道が三本交われば市が立つといわれるように、町というのはたくさんの道が交わり、それ以上の種類の人間が訪《おとず》れ、行き交っている。  しかし、そんな人ごみの中に人ならざる者がいるとはさすがに誰《だれ》も思わないだろう。 「ましてや、どこから見ても修道女なんてな」 「むう?」  独《ひと》り言《ごと》に振り向いたホロは口をもごもごさせている。あれだけ林檎を食べていたというのに、露店《ろてん》で干《ほ》し葡萄《ブドウ》が売られているのを見るや哀《あわ》れみを誘《さそ》う貧者のような目でねだってきたのだ。 「お前の食費がいくらになるか考えたくないな、と言ったんだ」 「ふうん。で、わっちが修道女に見えるとなにか不都合でもあるのかや」  聞こえているのにわざわざ聞き返すホロの意地悪さに苦笑いを隠《かく》せない。 「旅をするうえじゃ不都合どころか好都合だ」 「ほう。たかが布をまとうまとわないで色々変わるとは、人の世も相変わらずおかしなものじゃな」 「狼《オオカミ》でも羊の毛皮をかぶっていればなにかと好都合なことがあるだろ?」  ホロはしばし考えて、楽しげに笑う。 「兎《ウサギ》の毛皮をかぶっておれば、ぬしなどほいほい罠《わな》にかかるじゃろうな」 「なら俺は罠の中に林檎《リンゴ》を置いておこう」  唇《くちびる》を尖《とが》らせてから立て続けに干《ほ》し葡萄《ブドウ》を頬張《ほおば》るホロを見てつい笑ってしまう。  口から出るのは独《ひと》り言《ごと》か商談か、という行商生活にはない楽しさだ。  それも、打てば響《ひび》いてくれる相手となれば楽しくないわけがない。 「まあ、不都合がないわけじゃない。特にお前の場合はな」 「ふむ」  口調から真面目《まじめ》な話かどうかすぐに悟《さと》れるらしく、隣《となり》を歩くホロは茶化すことなく再びこちらを見上げてきた。 「修道女があからさまに真っ昼間から酒を飲んでいたら色々とまずいからな。酒場も多少は大目に見てくれるとしても、いちいちそのことを気にかけてなきゃならないとなればどうだ」 「うむ。今にも落ちそうな吊橋《つりばし》の上で酒を飲むようなものじゃな」  一瞬《いっしゅん》でそんなたとえが出てくるところについ感心してしまう。 「それに、世の中には本当に色々な事情の町がたくさんある。特に北に行くと修道女の格好がまずい場所もあるからな」 「どうすればいいのかや」 「一着くらい町|娘《むすめ》に見える服を持っているのが無難だな」  ホロはおとなしくうなずいて、残りの干し葡萄をまとめて口に放《ほう》り込んだ。 「それなら、飯の前に買ってしまわぬかや。用事が控《ひか》えておるとなるとこれもまた飯の味を落としんす」 「物分りがよくて助かる。説得する手間がない」 「先に飯と酒じゃと言うとでも? そこまでわっちゃあ食い物に目をくらませぬ」  どうだかな、とばかりに肩《かた》をすくめてやると、ホロはつまらなそうに指をなめた。 「ふん。ぬしが気を遣《つか》ってくれたんじゃ。うまくそれに乗らんとな」  ロレンスのほうを見ず、道の先を見ながらホロは静かに言って、それからうっすらと笑ってため息をついた。 「服を一つ買うのに大仰《おおぎょう》な理由づけじゃな。それに気がつかぬとでも思うかや」  ロレンスが口元に手を当てたのは別に驚《おどろ》きの声が漏《も》れそうになったからではない。  ちょっとした気恥《きは》ずかしさがあったからだ。 「くふ。ま、遠慮《えんりょ》なくぬしに服を買ってもらうことにしよう。これから寒い寒い冬じゃからな」 「少しくらいの遠慮《えんりょ》はしてもらいたいがな」  ちょっかいをかけては笑う子供のような顔をして、ホロはすすっとロレンスの右手に指を絡《から》ませてきた。  ホロはホロなりにロレンスの懐《ふところ》具合を心配してくれている。けれども、常にそこを心配されるというのも男として情けない。  そして、そんな内心のせめぎあいを賢狼《けんろう》はとっくにお見通しらしい。  ホロの先回りをするには、まだまだ経験が足りなかった。 「寒いからの。手が冷える」  もちろん、そんな言葉を頭から信じるロレンスではない。  しかし、商人は嘘《うそ》をつくのが商売だ。 「ああ、寒いからな」 「うん」  互《たが》いに嘘だとわかっているはずなのに、それは本当のことを言うよりもこそばゆい。  雑多な人たちがたくさん行き交《か》うこの通りで、唯一《ゆいいつ》その嘘の奥にある秘密を分かち合う。  それは、生まれて初めてうまくいった大きな商売で得た、頭に月桂樹《げっけいじゅ》の冠《かんむり》を載《の》せた女王の肖像《しょうぞう》が刻まれた金貨を懐にしまった時よりも心地《ここち》よかった。 「あ」  しかし、ロレンスはそんなことを思っている最中にあることに気がつき、夢見心地から雑踏《ざっとう》ざわめく道の上に舞《ま》い戻《もど》った。 「どうしたかや」 「金が……ないな」  ホロは一瞬《いっしゅん》ぽかんとしたあとに、呆《あき》れるを通り越《こ》して軽蔑《けいべつ》するような目を向けてくる。  なんだかんだ言いつつこのあたりはそこらへんの町娘《まちむすめ》と変わらない。  町娘というのは買ってもらえると思ったものが買ってもらえないとなると、それがどんなくだらないものであっても商人以上に執念《しゅうねん》深くなる。  七年の行商生活で覚えたことの一つだ。 「しかし、名誉《めいよ》のために言っておくならば、金がないというのはお前が思っているようなことじゃない」 「ふん?」 「細かい金がないという意味……」  と、喋《しゃべ》りながら懐をまさぐろうとして、左|腕《うで》が使えないことに気がつく。  少し残念ではあったが、努めてさりげなくホロの手を離《はな》した。 「ああ、やっぱりないな」  そして、貨幣《かへい》を入れる皮袋《かわぶくろ》の中身を見て、ロレンスはそう言った。 「大は小を兼《か》ねるという。金がないわけではないのじゃろ?」 「兎《ウサギ》を捌《さば》くのに牛刀を用いるという言葉もある。お前もパンを買う時俺に言っただろう?」 「むう。つり銭かや」 「両替《りょうがえ》してこないとな。服屋で金貨を出せばどれだけ嫌《いや》な顔をされるかわからない」 「ふむ……しかし、ぬしよ」  再び皮袋《かわぶくろ》の口を閉じ、腰《こし》にくくりつけているところにホロが声をかけてくる。 「金貨というのはそれほど価値の高いものなのかや」 「ん? そりゃそうだ。例えば今|懐《ふところ》にあるリュミオーネ金貨だと、トレニー銀貨の三十五枚前後が相場だ。宿に泊《と》まらず酒も飲まず、つつましく生活すれば銀貨一枚で優に七日間は生きていける。その三十五倍となればどうだ」 「……なかなかのものじゃな。じゃが、だとすれば、別に金貨でも困らなくないかや?」  隣《となり》を歩くホロを見て、その次に出てくる言葉の予想がついた。 「服は林檎《リンゴ》とは違《ちが》って、金貨で一枚二枚と数えるような品じゃろう? この服も金貨二枚と店で言われたが」  裕福《ゆうふく》な貴族の家が、暴徒と化した民衆に襲《おそ》われる時は些細《ささい》な一言が原因であることが多いと聞く。  ロレンスは、きっとその些細な一言というのはこういう一言なんだろうなと思って苦笑いだった。 「何着もそんな服を買ってやれるか。どの服もそんな値段をしていたら町の人間の大半が丸裸《まるはだか》だ」  一着で金貨二枚分のローブなど、請求書を書いた服屋の主人のほうも本当に支|払《はら》ってくれるのか半信半疑だったに違いない。公証人の下《もと》で契約《けいやく》を交《か》わさなかったのが不思議なくらいだ。  しかもそれを二着も買ったうえに、絹の腰帯《こしおび》までついている。  ただ、それを子供のいたずらだと思わなかったのは、ホロがどこぞの貴族の私設修道院の修道女にでも見えたからだろう。 「む……これはそんなに高かったのかや……」  と、ホロは身にまとっているローブを指でつまんでうつむくが、それがわざとだとわからないはずがない。 「そうだ。だからこれから買うものは貧相なやつにしろ」  途端《とたん》にホロはつまらなそうに唇《くちびる》を尖《とが》らせて顔を上げた。 「わっちゃあヨイツの賢狼《けんろう》ホロじゃ。それが身にまとうものが貧相であっては名に傷がつく」 「本当に美しい者であればなにを着ても映《は》えるというがな」  ぐっと言葉につまって顎《あご》を引き、しばしその頭を巡《めぐ》らせていたようだがうまい切り返しが見つからなかったらしい。  ホロは子供が癇癪《かんしゃく》を起こすように右|腕《うで》を一回|叩《たた》いてきた。 「しかし、両替《りょうがえ》か……」  そんなホロをよそに、そのことを考えて少しため息をつく。  金貨を銀貨に両替する際にはそこそこの手数料を取られることになるし、なによりも金貨を手放してしまうことに対して寂《さび》しさを覚えてしまう。  商人が金を稼《かせ》ぐのは金貨に恋をしているからだ、と笑われることもあるが、ロレンスとしてはあながちそれが冗談《じょうだん》とも思えない。  しかし、今となってはその問題よりも大きな問題が立ちはだかっていた。  町で貨幣《かへい》を両替する時にはなじみの両替商に行くのが定石《じょうせき》で、初めての両替商に頼《たの》めばまず間違《まちが》いなく詐欺《さぎ》を仕掛《しか》けられて損をする。しかも、それはある種の税金のように思われているので告発することもできはしない。それが嫌《いや》ならなじみになれ、というのが両替商組合の言い分だった。  もちろんロレンスにはなじみの両替商がいて、そんな心配もあまりない。  もっと別の問題が存在するのだ。  それすなわち、なじみの両替商は無類の女好きで、一度連れていったホロにベタ惚《ぼ》れだったということ。  しかも、ホロのほうはそれが少し嬉《うれ》しいらしい。  その上、両替商とホロが楽しそうにしているのを前にするとロレンスが情けない雄《おす》の習性として胸中|穏《おだ》やかでいられないことまで楽しんでいる。  ロレンスとしては、できることならホロを連れて両替をしに行きたくなかった。 「両替かや。となると……ほほう」  そして、勘《かん》が鋭《するど》いホロはそれに気がついて一転してにやにやと笑い出す。 「さて、ぬしよ、ちゃっちゃと用事をすまさぬかや。わっちゃあ早く酒が飲みたいからの」  ホロに手を引かれ、賑《にぎ》やかな大通りを行く。  ロレンスはどんな商談を前にした時よりも複雑なため息をついて、その柔《やわ》らかな手の持ち主の底意地の悪さを呪《のろ》ったのだった。 「一リュミオーネだと、トレニー銀貨で三十四枚ちょうどが今日の相場ですね」 「手数料は?」 「リュート銀貨なら十枚。トリエ銅貨なら三十枚」 「リュート銀貨で払《はら》う」 「かしこまりました。それでは……こちらになります。おっと、お気をつけください。道に落ちたものは拾った者の所有物になってしまいますからね」  そう言って両替《りょうがえ》商は丁寧《ていねい》に手の上に銀貨を置き、まるで子供にそうするかのように銀貨の置かれた掌《てのひら》を両手で包む。  ロレンスはリュミオーネ金貨を一枚差し出したが、両替商は包んだ掌を離《はな》さない。  それどころか、ロレンスのほうすら見ていなかった。 「ワイズ」  その名を呼ぶと、ようやく視線が向けられた。 「なんだよ」 「客は俺のほうなんだがな」  師匠《ししょう》同士が知り合いのせいでロレンスとは付き合いの長い両替商ワイズは、これ見よがしにため息をついて両替台を顎《あご》で示す。 「金貨はそのへんに置いておいてくれ。俺は今|忙《いそが》しいんだ」 「一体なにで忙しいって?」 「そりゃあ見てわかるだろう。こちらの娘《むすめ》様が銀貨を落とさないようにしている真っ最中だ」  ホロの手を包んで離さないワイズは、そう言ってから笑顔《えがお》をホロに向ける。  ホロはホロで、そんな仕草もできるのかとロレンスが思わず呆《あき》れてしまうくらいに恥《は》ずかしそうに、なおかつ嬉《うれ》しそうな顔をしてうつむいている。  ワイズもホロもそれぞれ馬鹿《ばか》らしいほど芝居《しばい》っ気《け》たっぷりだというのに、その場で唯一《ゆいいつ》真面目《まじめ》なロレンスだけが蚊帳《かや》の外で間抜《まぬ》けな役回りだった。 「しかし、ぬし様よ」  と、そんな折にホロが口を開き、ワイズの顔がたちまち引き締《し》まって精悍《せいかん》な騎士《きし》のようになる。 「わっちの手にはこの銀貨は少し多すぎるようでありんす」  当然だ、とロレンスが口を挟《はさ》む前にワイズが答える。 「おお、ホロさん。だからこそ私の手があるのです」  ホロが少し驚《おどろ》き、それから悲しそうに言った。 「そんなことをすれば、ぬし様の大事な手がふさがってしまいんす」  ワイズは首を振《ふ》り、続けた。 「貴女《あなた》の手から銀貨がこぼれ落ちるなら、喜んで私の手を使いましょう。しかし、それで私が困ることなどありません。なぜなら、きっとホロさんは私の胸の中にある、この両|腕《うで》でも抱《かか》えきれないような熱い想《おも》いを、そっくりと受け取ってくれるに違《ちが》いないのですから」  ホロは恥《は》じらう貴族の娘《むすめ》のように少しだけ顔を背《そむ》け、ワイズは真摯《しんし》にその顔を見つめる。  歯の浮くような台詞《せりふ》と頬《ほお》をひっぱたきたくなるような甘ったるいやり取り。  定番といえば定番だったが、まるで示し合わせていたかのようなその寸劇に、息が合うというのはこういうことをいうのだろうと見せつけられた感じだ。  ロレンスはどうしても面白《おもしろ》くない感情が胸のうちに芽生えてしまう。  つい、冷水《ひやみず》を浴びせかけてしまっていた。 「銀貨は袋《ふくろ》へ金貨は箱へ。手に握《にぎ》るのならば粗末《そまつ》な銅貨、という言葉があるのを忘れたのかワイズ」  両替《りょうがえ》商の下《もと》に弟子《でし》入りした時に真っ先に言われる、貨幣《かへい》の扱《あつか》い方の基礎《きそ》中の基礎。  ワイズの興を削《そ》ぐのにこれ以上のものもない。  予想どおり、ワイズはようやくホロの手から両手を離《はな》してがりがりと頭を掻《か》いた。 「ったく。こんなにいい娘を独占《どくせん》するとは神をも恐《おそ》れぬ所業だな。汝《なんじ》の持てるパンを分け与《あた》えよという言葉を知らないのか」 「分け与えて欲しいか?」  皮袋の口を開き、ホロの手の上の銀貨をしまいながらロレンスが言うと、小さく笑っていたホロも無表情にちらりとロレンスのことを見る。 「両替台の上に貸し借りはない。引き渡《わた》すか、否《いな》かだ」  最後の一枚を皮袋の中に入れ、冗談《じょうだん》とも思えないほど真剣《しんけん》な目をしたワイズにロレンスは笑いながら言ってやった。 「こいつが俺に背負っている借金もついてくるがな。それでも構わないのか」 「む」  と、ワイズは顎《あご》を引く。  それから、金の話が出て素《す》に戻《もど》ってしまったことに少しだけ後悔《こうかい》するような顔つきになった。  しかしそこは場慣れたワイズだ。  すぐに悲しげな表情に変えてホロに向かってこう言った。 「私は貴女《あなた》に値段をつけることなどできない」  ホロはたまらずに小さく吹《ふ》き出して、それでも芝居《しばい》がかった身振《みぶ》りを交えて返事をする。 「わっちの心の中の天秤《てんびん》は未《いま》だ揺《ゆ》れ動いている最中でありんす。ただ、決して金貨の重みではどちらにも傾《かたむ》きなど……」 「ええ、もちろんですとも」  そして、ワイズが再び手を取ろうとしたのをひょいとかわしてホロは言った。 「揺れる天秤に手で触《ふ》れるなど……ぬし様は、本当に悪いお人」  酒場の女が酔《よ》った客をたしなめるようなその言葉に、ワイズは同じ男として見ていられないほど顔をでれでれにさせている。  ロレンスは自分だけはこうはなるまいと心に決めつつ、ため息まじりにその三文《さんもん》劇に幕を下《お》ろした。 「さて、そろそろ行くぞ」 「あ、おい、ロレンス」 「ん?」 「わざわざ金貨を両替《りょうがえ》しに来たということは、なにか買い物か」 「ああ、北に向かうから服とかをな」  ワイズの視線が一瞬《いっしゅん》宙を泳ぐ。 「こ、これからか」 「そうだが……」  と、見ればホロは楽しそうに笑っている。  もちろんホロほど他人の胸中を見|透《す》かせなくたってワイズの考えていることはわかる。 「日を追うごとに値段が上がるだろうからな。なるべくなら今日中に買っておきたい」 「く……」  できることなら今すぐにでも店じまいをして駆《か》けつけたいといった顔のワイズだが、きっと外せない用事があるのだろう。  ロレンスはつい先ほどまで蚊帳《かや》の外に追いやられていた仕返しとばかりに、「それじゃ」と身を翻《ひるがえ》そうとした。  しかし、そこにホロが口を挟《はさ》む。 「両替というのは日が暮れてからもやるのかや?」  途端《とたん》、ワイズはとっかかりを見つけたとばかりに飛びついた。 「日が暮れてから天秤《てんびん》を扱《あつか》う両替《りょうがえ》商は詐欺《さぎ》師と相場が決まっています。もちろん私は詐欺師などじゃありません」 「だそうじゃ、ぬしよ」  ホロにそう言われたら、ささやかな復讐《ふくしゅう》心をいつまでも満たしているわけにはいかない。  それに、どの道|誘《さそ》うつもりだった。  旅に暮らす行商人には、夜の酒に付き合ってくれるような知り合いは数えるほどしかいないのだから。 「服を買ったら早めに酒場に行ってる。仕事が終わって、もしよければ、来てくれ」 「もちろんだ兄弟! で、酒場はいつものところか」 「見知らぬ酒場で酔《よ》っ払《ぱら》うのは怖《こわ》いからな」 「よしわかった。行くからな、すぐ行くからな!」  と、いう言葉はほとんどホロに向けてのもの。周りの両替商たちはワイズのそんな様子を見ても、またか、とばかりに気にしていない。露店《ろてん》の前を離《はな》れてもワイズは立ち上がって手を振《ふ》り続けていた。  そんな様子が面白《おもしろ》いのか、ホロもぎりぎりまでワイズに向かって手を振り返していた。  ようやく前に向きなおったのは両替商や金細工師たちが軒《のき》を連ねる橋の上を渡《わた》り終えてからだ。 「くふ。やはり予想どおりに面白かったの」  うまい酒を飲んだ時のようなホロの言い方に、ロレンスはため息しか出ない。 「あんまり本気にさせるとあとあと困るぞ」 「困る?」  美しい修道女が巡礼《じゅんれい》の旅に出ると、帰りの人数が行きよりも膨《ふく》れ上がっているという笑い話がたくさんある。 「つきまとわれる」 「ぬしにすでにつきまとわれておる」  言葉に詰《つ》まると、ホロは片方の牙《きば》をちらりと覗《のぞ》かせて意地悪げに笑った。 「あれはぬしと違《ちが》って、わかっていて遊んでおる。ぬしをからかうのも楽しいがな、たまには賢《かしこ》い雄《おす》とも遊びたい」  色々と言いたいところだが、ロレンスの頭ではなにひとつ言葉が口から出てこない。  商談以外のこととなるとからっきし駄目《だめ》な自分に改めて情けなくなった。 「どちらも遊びとわかっておるからの、そんな真剣《しんけん》にならんでくりゃれ。わっちのほうが照れてしまいんす」  わざとらしく頬《ほお》に手を当てるホロに、ロレンスは苦りきった顔しかできなかった。 「ま、ワイズとやらはぬしよりもよほど口が回るがな、わっちゃあ長いこと生きておって口から出ることほど当てにならぬものはないと思いんす。商いの世界に生きるぬしも、それがまったくわからぬわけでもあるまい?」  突然《とつぜん》の言葉に少し驚《おどろ》くと、ホロの顔は笑っていてもその綺麗《きれい》な琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》はあまり笑っていなかった。  ホロは長いこと不本意に村の土地に縛《しば》りつけられ、麦の豊作の神をやらされていたという。村人たちは口々にホロをたたえつつも、彼らはホロの首に鎖《くさり》を巻いて土地から離《はな》さなかった。挙句《あげく》、用ずみとなればそ掌《てのひら》の返し方も冷酷《れいこく》だった。  それを思うと重い言葉だ。  しかし、だからこそホロがさりげなく握《にぎ》ってきた手が温かい。 「ああ。俺も自分が得をするためならいくらでも嘘《うそ》をつくからな」 「わっちには通じぬがな」  フードの下で耳を自慢《じまん》げに動かしているのがわかり、ロレンスは思わず笑ってしまっていた。 「さて、それじゃあ服を買いに行くか」 「うむ」  さてどんな服がホロには似合うだろうかと、そんな考えを悟《さと》られないようにするので精一杯《せいいっぱい》だった。  ホロが以前に買ったような、一着で金貨一枚も二枚もするような服というものは基本的に新品だ。  しかし、町の人間が新品の服を着るというのはなかなかない。  一度仕立てられた服は穴があいて擦《す》り切れるまで着られ、ぼろぼろになってもそれは古着として売られ、その都度修理されて蘇《よみがえ》る。富裕《ふゆう》な商人の仕立てた服の古着をそこそこの商人が買い、その商人が着古したものを下男が着る。その下男も着古したら弟子《でし》入りしたての職人に売られたり、裸《はだか》同然で旅に暮らす修道士に寄付される。  そして、彼らですら着古したものは最後にぼろ屑《くず》拾いが拾い集め、紙商人へ材料として売り渡《わた》される。  この流れのどこに位置するかでその者の社会的な位置が一目でわかる。  金貨二枚で服を仕立てるということは実際にはすごいことなのだ。ロレンスだって自分で仕立てた服というのは、ホロが先日の騒動《そうどう》の最中に破いてしまった服一着のみだった。  それをわかっているのかわかっていないのか。  服を巡《めぐ》る流れの中でもかなり底辺に位置する古着を扱《あつか》う露店《ろてん》の前で、ホロはあからさまに不満げな顔をしていた。 「うむ……」  と、ため息ともなんともいえない声を漏《も》らしているホロが手にしているのは、おそらく木の皮の煮汁《にじる》で染められたのだろう茶色の衣服。  もっとも、汚《よご》れたものを何度も洗って取れなくなった色と言われてもわかりはしない。それくらいのぼろだ。 「そちらは四十リュートですね。値段の割には丈夫《じょうぶ》かと」  店主の説明にも曖昧《あいまい》にうなずいて、結局ホロは服を陳列《ちんれつ》台の上に戻《もど》し、露店《ろてん》の前から三歩後ずさった。  自分の気に入るものはない、という意思表示だろうが、ロレンスはそんな様子にまるっきり貴族の娘《むすめ》だなと苦笑いだった。 「ご主人、北に行きたいので適当に厚くて安いものを二人分見|繕《つくろ》ってくれませんか」 「ご予算は」 「トレニー銀貨二枚」 「はいお任せを」  この時期に売られる服なんていうものは日常的に着るものではなく、寒さをしのぐための藁束《わらたば》と変わらない。色や形は二の次で、服の体裁を保ち、なるべく分厚くて、なおかつ虫が湧《わ》いてなければ万々歳《ばんばんざい》。  こういう商品は北から重装備で南に来た人が売り、これから北へ行く人がそれを買う。  ホロが手にしたぼろぼろの服も、きっともう何年も北と南を往復しているのだろう。  そういった服は一着いくらではなく、一山いくらが当たり前だった。 「上下の組み合わせに毛布も二枚つけて、こんなところでいかがでしょう」 「そうですね……。私は見てのとおり行商人で、今回の商用の旅でこちらに懇意《こんい》の商会ができましてね。その商会というのはミローネ商会なのですが」  この町でも有数の商会の名に、店主の頬肉《ほおにく》がピクリと動く。 「それで、これからは年に数回来ることになりそうなんですよ」  こういった古着屋の得意先は金に余裕《よゆう》のある行商人だ。  それも、頻繁《ひんぱん》に町に来てくれればさらにいい。  一着をどれだけ高い値段で売るかではなく、どれだけたくさん売れたかで儲《もう》けが決まる商売だから、ロレンスのその言葉に店主の顔がにんまりと笑《え》みに変わる。 「左様ですか。わかりました。それではこちらの外套《がいとう》にさらにもう一枚毛布をおつけいたしましょう。もちろん煙《けむり》で燻《いぶ》しずみ。二年は虫が湧かないこと請《う》け合いです」  つぎはぎだらけの外套に、つぶして干《ひ》からびたパンのようにごわごわの毛布ではあったが、こんなものでも北の地に行ってから調達しようと思えばそこそこの値段がする。  ロレンスは殊更《ことさら》満足げにうなずき、右手を差し出した。  握手《あくしゅ》と共に契約《けいやく》は結ばれ、早速《さっそく》店主が麻紐《あさひも》で服の梱包《こんぽう》に取り掛《か》かる。  そんな様子を眺《なが》めていると、ふと服を引っ張られたので振《ふ》り向いた。  予想どおり、ホロの不機嫌《ふきげん》そうな顔があった。 「わっちの服を買いに来たんじゃないのかや」 「そうだが?」  なにを当たり前のことを、といった感じで答えてやると、みるみるうちにホロの顔から生気が抜《ぬ》け落ちていく。  尻尾《しっぽ》の手入れにしか興味がなさそうでも、それなりに服に期待していたらしいことが窺《うかが》える。  ただ、波が引くようにがっかりとした表情になった直後、寄せて返ってきた波は怒《いか》りの色に染まっていた。 「わっちに……あれらを着ろと言うのかや」 「そのローブだけで寒さをしのげるなら別に構わないが」  ぐいっと服を引っ張って、店主に聞かれないためか、それとも単に怒りのあまりか、ホロが唸《うな》るように小さい声で言葉を紡《つむ》ぐ。 「わっちがぬしの金を勝手に使ったことに怒《おこ》っておるのならそう言いんす。わっちゃあ賢狼《けんろう》ホロじゃ。頭も器量もよいが鼻もよい。あんなものを着た日には鼻が曲がってしまいんす」 「少しくらい辛《つら》い目に遭《あ》ったほうが曲がった根性は直るかもしれない」  即座《そくざ》に胸を叩《たた》かれて、ロレンスは小さく咳《せ》き込みながらいい加減からかうのをやめることにした。 「怒るなよ。種明かしをしてやるから」  牙《きば》を剥《む》いて唸《うな》りかねないホロを手で制して、ロレンスはぎゅうぎゅうに服を縛《しば》り上げている店主に向かって声をかけた。 「ご主人、ちょっと相談が」 「むううぅぅぅ……よっと。はい?」 「女物の服でなにかいいのはないかな」 「女物、ですか」 「北の町でも困らない格好で、大きさはこいつに合わせて」  とはもちろんホロのこと。  店主の遠慮《えんりょ》のない目がホロに向けられて、それからちらりとロレンスにも向けられる。  店主の頭の中ではめまぐるしく損得計算が行われているに違《ちが》いない。  ロレンスの懐《ふところ》具合はもちろんのこと、ホロとロレンスの関係と、どれくらいホロにロレンスが金を使いそうかまで考えているだろう。  さらに、ここで秘蔵の逸品《いっぴん》をそこそこの値段で出せば、今後ともロレンスと良い関係を築けるとして、その時の利益はどのくらいのものだろうと皮算用も行っているはずだ。古着の商売は利用者が多い代わりに店|側《がわ》としても兢争相手が多い。頻繁《ひんぱん》に商用の旅で店を訪《おとず》れてくれる顧客《こきゃく》を得るのはとても大きなことといえる。  ホロの服を買いに来るのに、一山いくらのこういった露店《ろてん》に来たのはわけがある。  ホロの身にまとっているローブは子供が見たって高級品だとすぐにわかる。そんな服を身にまとった者を連れて安い古着を扱《あつか》う店に行けば、それは兎《ウサギ》の前に牛刀を持って立ちはだかるのと同じこと。  取引の基本は、相手よりも優位な立場に立つことだ。 「わかりました。お待ちください」  馬に食べさせる飼《か》い葉《ば》だってもう少し丁寧《ていねい》にするだろうというような感じで縛《しば》り上げられた服と毛布の束を、どすんと露店の陳列《ちんれつ》台の上に置いて店主は奥の商品の山に手を伸《の》ばす。  こういった露店はとにかく商品を右から左に動かすのが勝負で、そのためには買い付けにかなり怪《あや》しいところを使うのもためらわない。  つまり盗品《とうひん》などもとても多く、中にはそれなりの服などもまじっている。  掘《ほ》り出《だ》し物《もの》を探すのに、こういう店ほどうってつけのところはない。 「こちらなどいかがでしょう。さる商家の衣替《ころもが》えの際にこちらに売られたものですが」  と、出されたのは襟《えり》付きのシャツで、丈《たけ》の長いスカートと共に青で染められている。  これに綺麗《きれい》な白の前掛《まえか》けをして背筋を伸ばせば、あっという間にいいところの屋敷《やしき》の女中が出来上がる。色が褪《あ》せているわけでも袖《そで》が擦《す》り切れているわけでもないので、大方盗品だろう。  ただ、ものは上等でもホロが気に入るかといったらどうか。  ロレンスがそう思ってホロを見ると、ホロも気乗りしない様子だった。 「お気に召《め》しませんかね」 「こんなに仰々《ぎょうぎょう》しいのは嫌《いや》じゃ」  やはり、ホロがもしも貴族の家に娘《むすめ》として生まれたら、ドレスよりも鎧《よろい》を好んで近隣《きんりん》の噂《うわさ》の的になる類《たぐい》だろう。 「もっと簡単なものがよい。着替えが楽な」  その言葉に、ロレンスは店主と顔を見合わせて笑う。  着替えの短い女はそれだけで魅力《みりょく》的だ。 「となりますと……」  くるりと身を翻《ひるがえ》し、店主は再び服の山から宝を探し始めた。  着替えが楽なものとなれば、ローブのように羽織ってすます系統のものがよい。  さてそれでホロが町娘に見えるものとなればなにがあるだろうか。  ロレンスは考えつつ店主の背中を見つめていたのだが、ふと目に止まったものがあった。 「ご主人、それは?」 「はい?」  両手に薄手《うすで》の外套《がいとう》を持ちながら店主が振《ふ》り返り、ロレンスの指差す先を目で迫っていく。  そしてたどり着いた先にあったもの。  柔《やわ》らかな茶色の、革《かわ》のケープだ。 「なるほど。これに目をつけるとはさすがですな」  半分ほど服の山に埋《う》もれていたが、店主が山の中から丁寧《ていねい》に引っ張り出すとそれは思ったとおりのものだった。 「こちらはさる貴族様が使用されていた逸品《いっぴん》でしてね」  途端《とたん》に始まった嘘《うそ》か本当か怪《あや》しい店主の説明をよそにホロを見れば、ホロはまんざらでもないようだ。 「皮を丁寧になめし、見てください、綺麗《きれい》に端《はし》を縫《ぬ》ってありちょっとやそっとじゃ破れません。それと見るべきはこの胡桃《クルミ》のボタン。これを肩《かた》に掛《か》けてそうですね……こちらの……よっと。こちらの、貴族様の家の使用人たち用に特別に仕立てられた三角巾《さんかくきん》などをかぶれば、あっという間に町の看板|娘《むすめ》となりましょう」  大仰《おおぎょう》な説明と共にケープと三角巾を手|渡《わた》され、ロレンスは少しだけそれらを見てホロに渡す。  ホロは少しだけ鼻をひくひくとさせて、「兎《ウサギ》かや」と呟《つぶや》く。 「つい食べたくなってしまうか?」  と、言ってやるとホロは声なく笑って顔を上げた。 「これがいい」 「だそうです。ご主人、いくらですか」 「毎度ありがとうございます。二つでそうですね、トレニー銀貨十枚。いや、九枚でいかがです」  そこそこ安めのいい値段だ。  今後ロレンスといい関係になろうという投資だろう。  ただ、まだ値切る余地があるに違《ちが》いない。  そう思ってロレンスが渋《しぶ》い顔をすると、店主は続けて言葉を向けてくる。 「わかりました。こちらのお嬢様《じょうさま》の見目麗《みめうるわ》しさに免じて八枚で」  そうくるかと思わず笑い、八枚なら買いだとロレンスが口を開きかけたその瞬間《しゅんかん》、ホロがするりと口を挟《はさ》んでいた。 「ならば、そんな可愛《かわい》いわっちがこれらを身にまとった姿を披露《ひろう》するのに免じて七枚でいかがかや?」  ぽかん、と息をするのも忘れてしまったかのように固まった店主は、ホロの小首をかしげた笑顔《えがお》で我に返り、大きく咳払《せきばら》いをした。  ホロくらいの年頃《としごろ》の娘がいてもおかしくはない店主だ。 「わかりました。七枚でお譲《ゆず》りいたしましょう」 「ありがと」  そう言ってぎゅっとケープと三角巾を抱《だ》きしめるホロの笑顔に、店主は再度咳払いをする。  隣《となり》にいるロレンスとしては、七年間の行商生活で培《つちか》ってきた交渉《こうしょう》術よりも強力なそれに、苦笑いをするほかなかったのだった。  そして、実際のところ着替《きが》えたホロは十人とすれ違《ちが》えば十人とも振《ふ》り向きそうな町|娘《むすめ》だった。  店主の前で呆《あき》れるほど器用に耳を出さず三角巾《さんかくきん》を頭につけ、ローブも胸元《むなもと》で留めているボタンを外してするすると脱《ぬ》ぎつつ、腰《こし》に巻きスカートのように巻く。それから最後にケープを羽織って出来上がり。  ホロには人ならざる獣《けもの》の耳と尻尾《しっぽ》があるとわかっているロレンスからすれば、魔法《まほう》を使っているかのように見事な着替えだった。  店主の評価も上々で、ホロのほうもご満悦《まんえつ》だった。  そんなふうに店をあとにしてしばらくすると、ふとホロが声をかけてきた。 「服、高くなかったかや」 「いや? その質で銀貨七枚なら上等だろう」  正直なところを言ったのだが、左隣を歩くホロの顔はあまり優《すぐ》れない。  右|肩《かた》に載《の》せている服の束を担《かつ》ぎなおし、ロレンスは笑いながら聞き返した。 「まだ値切る自信があったのか?」  しかし、ホロは笑わずゆっくりと首を横に振り、静かに答えた。 「ぬしが担いでおるような服であれば、これの十分の一ですんだじゃろう?」 「ああ」  そういうことかと納得《なっとく》した。 「本当はもっとかかると思ってたくらいだから気にするな」  ホロは小さくうなずくが、やはりまだ表情は晴れない。 「お前がこのあと酒を控《ひか》えれば、銀貨七枚分なんてあっという間に浮くだろうからな」 「そんなに飲まぬ」  そして、ようやく少しだけ笑ったのだった。 「しかし、お前のあの強引な値切り方は実に汚《きたな》いな」 「うむ?」 「どんな凄腕《すごうで》の商人でもあれには敵《かな》わないだろう?」 「ふん。雄《おす》は揃《そろ》って阿呆《あほう》じゃからの」  いつもの意地悪い笑《え》みを浮かべてホロは言い、ロレンスが呆《あき》れるようにため息をつくとあとを続けてきた。 「ぬしはその荷物どうするのかや。持ったまま酒場に行くのかや?」 「これか? いや、持っていかない」  すると、少し不思議そうな顔をする。 「宿に帰るのならば道は向こうじゃないかや」 「いや、宿にも置かない」 「む?」 「これはそのまま別の服屋に売る。防寒用に買い込むのはもう少し北に行ってからでも十分だ」  嘘偽《うそいつわ》りのない答えだったが、ホロは突飛《とっぴ》なことを聞かされたようにきょとんとしていた。 「売る……のかや」 「ああ。使わないのに持っていてもしょうがないだろう?」 「うむ……それはそうじゃが……しかし、高く売れるのかや」 「どうだろうな。とんとん……は難しいか。少し損するだろうな」  ホロがますます不思議そうに首をひねる様がなんとも面白《おもしろ》かった。 「損をする、のに、売る……のは……むう」 「わからないか?」 「待ちんす。今考えておる」  むきになって考え始めたホロにロレンスは笑い、視線を秋の空に向けた。  空はいつもと変わらない薄《うす》い青だったが、どことなく広く、澄《す》んでいるように見えた。 「むう……」 「種明かしをしてやろうか」  見なれた空から視線を戻《もど》して言ってやれば、今までの旅にはいなかった連れが悔《くや》しそうに唸《うな》った。 「とはいっても大したことじゃないし、結局お前のほうがすごかったんだけどな」 「む……う?」  と、ホロが器用に片|眉《まゆ》を上げたので、ロレンスはそれを降参と見て種明かしをした。 「この服の束は銀貨二枚分。例えば、これを別の店に持っていって半分の値段で売れたとしよう。銀貨一枚分の損だ」 「うむ」 「しかし、ここで考えを別のところに向ける。というのも、お前が着ているローブは誰《だれ》が見ても高級品だとわかる。そんなものを着ている奴《やつ》はああいう店には本当は来ないような客といってもいいだろう。すると、あの店はそんなお前を連れている俺とどうにかして良い関係になりたいと思う。さて、その時にあの店はどうする?」  ホロは即座《そくざ》に答えてくる。 「安くものを売る」 「そうだ。それから導かれることは?」  賢狼《けんろう》を自称《じしょう》するホロの視線が一瞬《いっしゅん》遠くなる。  ロレンスは笑って、続きを口にする。 「服の束を買う時にあの店主はそこそこ負けてくれた。そして、次にお前用の服を買う時にもかなり負けてくれた。これはあの店主が気前の良いところを見せればこの先も俺が買い物に来てくれると踏《ふ》んだからだ。なにせ銀貨二枚分でぼろ屑《くず》に近い服を買い込んでくれたんだからな。しかし、その二つの買い物の値段の間にはとても大きい開きがある。ここから導かれることはなんだ?」  ホロほど頭の巡《めぐ》りが良ければすぐに解答にたどり着くだろう。  そして、ロレンスは数瞬後にその予想は正しかったと確認《かくにん》した。 「つまりは……ぬしがその服の束を売った時の損と、ぬしがその服の束を買ったからこそあの店主が値引きしてくれた差額を見れば、服の束で損をしても全体で見れば得、とそういうわけじゃな?」  左手でよくできましたとばかりに頭を撫《な》でてやると、容赦《ようしゃ》なくホロに叩《たた》かれて激痛にうめく。 「ふん。姑息《こそく》な手じゃな。まったく姑息な手じゃ」 「痛てて……それは俺の左手のことか」 「たわけ。まったく、よくもまあそんな手を思いつくものじゃな」 「これが商売の知恵《ちえ》というものだ。が、それもお前の力技《ちからわざ》のほうが勝《まさ》ってたんだがな」  自嘲《じちょう》するようにロレンスが笑うと、ホロも呆《あき》れたように笑ってきた。 「当たり前じゃ。ぬしの浅知恵などではわっちの策に勝てはせん」 「言ってくれるな」 「ほう。勝てるとでも?」  ホロが目を細め、妖艶《ようえん》に笑いながら言ってくる。  こんな笑顔《えがお》も似合うから女というのはずるい。  ただ、なによりもずるいのはホロがそれを自覚しきっているということだ。 「ま、ぬしに自信があるのならこのあとの酒の席で腕前《うでまえ》を見せてもらうかや」  ひらひらと手を振《ふ》るホロにロレンスはぐっと言葉に詰《つ》まった。  忘れていたが、あのワイズも酒を飲みにやってくる。 「せいぜい高値でわっちを買ってくりゃれ?」  そう言って笑うホロだったが、ロレンスも黙《だま》ってはいられない。  取って置きの一言で切り返してやった。 「買ってやる。ただし支|払《はら》いは林檎《リンゴ》でな」  意表を突《つ》かれたように少しだけ目を見開いたホロは、それから悔《くや》しげな笑顔を浮かべてロレンスに身を寄せてきた。 「ぬしもなかなかきついところがある」 「焼いたら少しは甘くなるかもしれない」  ホロは声なく大笑いして、それからロレンスの左手を壊《こわ》れ物《もの》のように柔《やわ》らかく掴《つか》んできた。 「妬《や》いた雄《おす》など甘ったるくて食えぬ」 「ならお前は?」  傷が痛まない程度に握《にぎ》り返してロレンスは訊《たず》ねる。 「試《ため》しにかじってみればよい」  肩《かた》をすくめて笑って空を見上げれば、とてもとても澄《す》んだ青が広がっていた。 [#地付き]終わり [#改ページ]  狼と琥珀色の憂鬱  妙《みょう》に酒が回る、と思った。  湖すら飲み干すといわれたこの賢狼《けんろう》が、麦の香《かお》る色つき水の一杯《いっぱい》目でこれほどとは、と訝《いぶか》しんだのもつかの間、二杯目の途中《とちゅう》で顔が火照ってきた。  しかも、こんなにも酒が回ってきているというのに一向に気分はよろしくない。酒が悪いのかと鼻をひくつかせたが、よくわからない。  ついには視界が揺《ゆ》らいできて、瞼《まぶた》までもが重くなり、テーブルの上の料理の数々がかすんで見えた。目の前には砕《くだ》いた岩塩をまぶした脂《あぶら》の滴《したた》る牛の肩肉《かたにく》があるというのに、食欲がかけらも湧《わ》かないのはどうしたことか。  いや、それ以前に自分はどれだけ料理を食べただろうか、と考える。  もしかすると体調が悪いのかもしれない、とこの段になってようやく自覚し始めたが、だとするとなおのことこのままではいけないと思った。  これがいつもの食事であればいい。気分が悪いことを訴《うった》えれば、きっと旅の連れはこちらが恥《は》ずかしくなるくらいあれこれ手厚く看病してくれることだろう。  しかし、今、この小さな円卓《えんたく》についているのは自分と旅の連れだけではない。  旅の連れが間抜《まぬ》けなせいで巻き込まれることになった大|騒《さわ》ぎを経て、万事が丸く収まったちょっとした祝いの席になっている。  せっかくのよい気分のところを自分が台無しにしてはならない。祝宴《しゅくえん》というものはどんなにささやかなものであってもとても重要なものだからだ。  ただ、ここで倒《たお》れてはならないと思うのは、そんな真面目《まじめ》な理由だけから、というわけではない。  むしろ、目下最大の理由は目の前に座るもう一人の存在に求められるかもしれない。  くすんだ金髪《きんぱつ》に貧相な体つきの、羊|飼《か》いの娘《むすめ》。  これを目の前にして、無様を晒《さら》すわけにはいかない。 「それにしても、羊が岩塩を見つけるとは知りませんでした」  先ほどから続いている羊の話題について、改めて旅の連れが感心しきりといった様子でそう言った。  年の頃《ころ》十代の半ばかといった羊飼いの娘に対して、その相手をする連れは二十余年を生きてきたといった感じ。いくら賢狼《けんろう》といえど人の世の全《すべ》てを理解しているわけではないが、小さいテーブルを挟《はさ》んでこう親しげに話していれば、なんとなく、そう、番《つがい》に見えなくもない。 「なぜかあの子たちは塩気がとても好きで……。例えば、岩に塩を軽く擦《す》り込んでおけば、いつまでもずっとなめ続けるんですよ」 「え、その話は本当なんですか? いつだったか聞いた話で、遠くの町には羊を使った変わった拷問《ごうもん》があるらしいと小耳に挟《はさ》んだことがあるんです。そんなまさかな、と思っていたんですが」 「羊を、使った?」  羊飼いの娘、ノーラとかいう名前のそれが興味探そうな視線を向ける。素直《すなお》で従順そうな、見ているだけで食べたくなる羊のような瞳《ひとみ》だ。  その羊のような羊飼いの娘は、喋《しゃべ》りながら円卓《えんたく》の真ん中に大きく居座る牛肉の塊《かたまり》に手を伸《の》ばした。先ほどから追加される料理は全て牛か豚《ブタ》か魚で、羊の肉はない。  羊飼いが同席するので羊料理にしなかったのだろうが、自分にはその相談が一切《いっさい》されなかった。  当然、羊肉が食べたかったのに、とわがままを言うのは賢狼の沽券《こけん》に関《かか》わる。  いや、そんなことはいいのだ。些細《ささい》な問題に過ぎない。  重要な点は、旅の連れがこちらの体調の悪さに一向に気がつかないことと、だというのに羊飼いの娘のために甲斐甲斐《かいがい》しく牛肉の塊にナイフを入れ、薄《うす》く切って皿代わりのパンの上に載《の》せてやっているということだ。  忌々《いまいま》しくて手が勝手に酒を口に運ぶが、さっきからずっとなんの味もしない。ただ胸だけがかっかかっかする。  頭の中では、誇《ほこ》り高き狼《オオカミ》であるもう一人の自分がやれやれと呆《あき》れていた。  しかし、どうにもならない。体調が悪くなればどうしたって機嫌《きげん》も悪くなるところに、目の前には憎《にく》き羊飼いがいて、挙句《あげく》の果てにそれが連れである行商人お好みの、貧相にして従順そうな小娘《こむすめ》であるのだ。  か弱い小娘が好みなどと、まったくたわけの雄《おす》の極《きわ》みと言いたいところだが、それを口に出せば自分が無類の間抜《まぬ》けになるのはわかりきっている。  防戦一方というやつだ。  性に合わない戦いは、ことのほか消耗《しょうもう》する。 「なんという名前の町か失念してしまったのですが、そこの町の拷問《ごうもん》は、そう、羊に足をなめさせるんですよ」 「え? 羊に?」  さぞか弱い娘であろうから、丁寧《ていねい》にパンに肉を挟《はさ》んでご丁寧に千切って食べるのだろうと思っていたら、意外にもそのままかぶりついた。  ただし、口が小さいうえに遠慮《えんりょ》がちにかぶりついたので、ほとんど噛《か》み切れず、ちょっと困惑《こんわく》していた。  もっと口を大きく開けて、噛み千切るようにすればよいだろう、と言いたくなったが、そんな様子を見ている連れの顔がだらしなくゆるんでいた。  怒《いか》りと共に、記憶《きおく》に留《とど》めておく。  人の姿では、ああするのがよいのか、と。 「ええ、羊になめさせるのですが、それも、足に塩をつけるらしいのです。最初のうちは、くすぐったくて罪人が笑って苦しむそうです。しかし、いつまで経《た》っても羊はなめることをやめず、ついにはそれが激痛に変わり……」  多少酒が回っているのか、大仰《おおぎょう》な仕草でそう言うのが、またうまい。  旅から旅で、この手の話をするのは慣れているのだろう。  ただ、自分にしてくれたことは一度もない。  じわり、としみ入るような頭痛がこめかみあたりでうずき出す。 「確かに、私が干し肉を食べたあとの手をどうにかしてなめようと羊たちが集まってきて困ることがあります。いい子たちなのですけど、なんというか、加減を知らなくてちょっと怖《こわ》いところがありますね」 「その点、お連れになっている騎士《きし》は聞き分けが良さそうで」  ぴくり、と狼《オオカミ》の耳が動いてしまったが、きっと連れは気がついていないだろう。  羊|飼《か》いの連れている騎士とは、あの腹の立つ牧羊犬のことだ。 「エネクですか? うーん……エネクもエネクで、時折|頑張《がんば》りすぎてしまうというか、融通《ゆうずう》が利《き》かないところがあって」  と、ノーラが言うと、足元から抗議《こうぎ》するような鳴き声が一つ。  テーブルの上にこぼしたパン屑《くず》や、肉の切《き》れ端《はし》を貰《もら》っているのだ。  時折、テーブルの下からこちらに視線を向けているのがよくわかる。  犬のくせに、高潔なる狼《オオカミ》に一丁前に警戒《けいかい》心を剥《む》き出しにしている。 「とすると、やはり彼らを導く羊|飼《か》いとしての腕《うで》が確かなのでしょう」  羊飼いが驚《おどろ》いたように目を見開いて、それから少し顔を赤くしたのは酒に酔《よ》ったせいではないはずだ。  ぶわり、と尻尾《しっぽ》の毛がローブの下で逆立った。  テーブルの下から、こちらを笑うような犬の息遣《いきづか》いが聞こえてくる。  視界がぐらりと歪《ゆが》んでしまったのは、怒《いか》りのせいに違《ちが》いない。 「ところで、やはりノーラさんはこの先も自分の夢を?」  夢。  そんな単語にびくりと反応して、初めて自分がうつらうつらしていたことに気がついた。  もしかして、今の今まで腹の立つようなやり取りも全部夢だったのでは、と思いかけて、慌《あわ》てて打ち消した。  本格的に体調が悪い。  しかし、ここは悟《さと》られず、どうにか宿までこらえるしかない。  なにより、ここは敵地だ。  自分の縄張《なわば》りでならば有効な手段も、敵地では逆効果になる可能性が高い。  せっかくの祝いの席で気分が悪くなったと言えば、場をしらけさせるには十分すぎる。悪いのは誰《だれ》かとなれば、自分に他《ほか》ならない。  だが、自分には宿屋の狭《せま》い部屋という縄張りがある。  そこで初めて気分が悪いと言えば、これはもう狩《か》りは成功したも同然だ。  茂《しげ》みの裏に隠《かく》れている自分に気がつかずうっかり現れてしまった兎《ウサギ》を狩るに等しいことといえよう。  となれば、やはりここで醜態《しゅうたい》を晒《さら》すわけにはいかない。気張って自分もテーブルの上の肉を取ろうとしたが、その腕《うで》を持ち上げることすらが億劫《おっくう》で、皿まで手が届かなかった。  この日の最大の失態といえば、これだろう。 「なんだ、もう酔ったのか?」  苦笑まじりだろうとは顔を見なくともわかる。  体のほうはだるくても、自慢《じまん》の耳と尻尾だけは健在だ。  旅の連れがなにを食べながらどんな姿勢でどういった顔つきをしているかなど、目に頼《たよ》らずともわかる。  だから、自分の代わりに肉に手を伸《の》ばして切り身を取ってくれた旅の連れが、札も言わない自分のほうを見た時の表情の変化も、うんざりするほどよくわかった。  自分がどのような様子で相手の目に映り、それを見て相手がどう思うかが手に取るようにわかる。  ただ、もうその時にはそんなことすらどうでもよいと思っていた。  願うことは唯一《ただひと》つ。 「お前、顔色が……」  横になりたかった。 「ホロ!」  旅の連れ、ロレンスの言葉を最後に、記憶《きおく》は一度ここで途切《とぎ》れる。  次に気がついた時には、息苦しいくらいに重い布団《ふとん》の束の下だった。  いつ、どうやってここに来たのかほとんど記憶がない。  曖昧《あいまい》な記憶の中では、自分は背負われてここに来たような気もする。  情けない、と思う一方で、胸のうちがふわふわしてしまうのは否《いな》めない。  ただ、それは夢なのかもしれないのですぐに頭の片隅《かたすみ》に追いやった。  実際にその手の夢を見ることがあるのだ。  万が一夢で見たことを現実と勘違《かんちが》いして、うっかり礼など言おうものならどれほどあれを喜ばせるかわかったものではない。  賢狼《けんろう》たるもの、怒《おこ》る時は叱《しか》る時で、笑う時は褒《ほ》める時で、隙《すき》を見せる時は相手を油断させる時でなければならないからだ。 「……」  しかし、と重いくらいに重ねられた布団の中で身じろぎして、体を横に向ける。  失態だった。  食事は中止になっただろう。  祝いの席の大事さを身にしみて知っている者として、まずそれを恥《は》じた。  次に、あの小娘《こむすめ》を前にして自分が醜態《しゅうたい》を晒《さら》してしまったということを恥じた。  これでは賢狼としての威厳《いげん》を保ち得ない。  崇《あが》め奉《たてまつ》られるのは嫌《いや》でも、威厳は捨てたくない。  特に、あのお人好《ひとよ》しの行商人の前では。 「……むぅ」  しかし、と思う。  今更《いまさら》こんな失態を犯《おか》したところで、これまでにあのへたれの旅の連れの前で晒してきた醜態の数々を考えれば、物の数ではないような気もする。  どれも賢狼の名を泣かせるのに十分なものだった。  気に入らないから怒り、面白《おもしろ》いから笑い、ついうっかり隙《すき》を見せてしまう。  まだ出会ったばかりだというのに、なんだか長い旅路を経てきたような感覚すらあり、その一つ一つを思い出すと大きな失敗をしでかした時のように胸が苦しくなる。  もちろん大昔にだって手ひどい失敗の一つや二つしていたが、それらを思い出しても胸は苦しくならない。  この旅で、急にそんなことになったような気がする。 「……なんでじゃろうか」  つい、呟《つぶや》いてしまった。  最近まで何百年と一人で麦畑にいたせいだろうか、と考える。毎日は何事もなく過ぎていき、昨日と今日の区別はなく、明日と明後日の区別もない。時折思い出したかのように時間が進むのは、一年に一回の収穫《しゅうかく》の祭り、二回の種まきの祭り、それから霜《しも》が降りないように祈《いの》る祭りと、雨が降るように祈る祭りと、風が吹《ふ》かないように祈る祭りがある時だけ。  指折り数えてみると、一年のうちに昨日と今日が区別できる日はせいぜい二十日くらいしかない。そうなるとどうしたって、時間の感覚は日にちという細かい単位ではなく、月の単位に、季節の単位へとなっていき、あとの日は全《すべ》て、祭りではない日、でくくられてしまう。  それに対して、旅というのは日々生まれ変わるに等しいくらいに毎日が新鮮《しんせん》だ。  下手をすれば、苗木《なえぎ》が巨木《きょぼく》になるのをじっと見つめていることすらあった生活に比べると、あの若い行商人と今日まで過ごしてきた日はまさしく何十年分にも相当する。  一日の中ですら、朝と夜ではもうまったく違《ちが》う。朝に侃々諤々《かんかんがくがく》喧嘩《けんか》したかと思えば、昼には仲直りして口についたパンのかけらを取らせてからかい、夕方は飯の取り合いでまた喧嘩して、夜は明日のことで静かに話し合う。  こんなにもめまぐるしく変化することが果たしてこれまであっただろうかと考える。  あったのだろう、と答えは返ってくる。  人と旅をしたり、暮らしたことは何度かあった。忘れられぬ記憶《きおく》もある。  しかし、麦畑の中で一人、することもなく昨日も一昨日もしたはずの尻尾《しっぽ》の毛づくろいをしていた時ならいざ知らず、今はそれらを思い出す余裕《よゆう》はない。  昨日は連れはどうしていたか。今日の朝はどうだったか。そして、目の前で今なにを企《たくら》んでいるか。それらを考えるのであまりにも忙《いそが》しすぎるのだ。  のんびり故郷のことを思い出してはめそめそしていたのも連れと出会ってすぐまでだ。  尻尾の毛の数を二度三度数えなおすくらい暇《ひま》な日々に慣れていたから、こんなに刺激《しげき》に満ちた毎日では目が回ってしまっておちおち悲しんでもいられない。  楽しくないといえば、嘘《うそ》。  むしろ、楽しすぎて不安なくらいだ。 「……」  横向きに寝《ね》ていた体をうつぶせにして、ようやく楽な姿勢を見つけたとばかりにため息が出てしまった。  せっかく人の形をしているのだから人らしく寝《ね》てみようという洒落《しゃれ》っ気《け》を持ってはいても、どうにもこの姿勢以外は楽になれない。  うつぶせで、それも、体を丸めるのがなおよろしい。  連れは頭の悪い猫《ネコ》のように体をだらりと伸《の》ばし、仰向《あおむ》けになってあほ面《づら》丸出しで寝ているが、確かにそれくらい無防備で無神経でなければ人の世は渡《わた》っていけないのかもしれないと最近思うようになった。  人が七十年生きれば褒《ほ》められるほど短命なのは、毎日が忙《いそが》しすぎるからに違《ちが》いない。  木々を見よ、と思う。  連中は昨日と今日どころか、去年と再来年《さらいねん》の区別もつかないだろうからあんなにも長命なのだ。  と、思ったあたりで、そもそもなにを考えていたのか思い出せなくなった。 「……むう。羊|飼《か》いか……」  ようやく、事の発端《ほったん》を思い出す。  とりあえずあの場では自分の失態だった。  しかし、ここは宿で、誰《だれ》の邪魔《じゃま》も入らない。  となればあの気の利《き》かない連れをあれこれからかって思いきりわがままを言ってやろう。  なによりあの食事の席ではずっと羊飼いの娘《むすめ》ばかり相手にしていて、こちらのことなどろくに見てくれなかった。  苦難を乗り越《こ》えられたのはこの賢狼《けんろう》のお陰《かげ》だというのに。あんな羊飼いの。貧相な体つきの。それとも金髪《きんぱつ》か?  あれこれ考えているうちにまた瞼《まぶた》が重くなってきて、それがまた悔《くや》しい。  大体、あれはどこにいるのか。  肝心《かんじん》な時に側《そば》にいないとはいよいよ役に立たない雄《おす》だと、自分でも理不尽《りふじん》だとは思いつつもどうしようもない怒《いか》りが湧《わ》いてきた頃《ころ》、足音が耳に引っかかった。 「!」  と、体が起きかけてしまった。  そして、そんな様がまるで犬ではないかと恥《は》ずかしいやら腹立たしいやらでベッドに伏《ふ》せた。  こんな軽薄《けいはく》な振《ふ》る舞《ま》い、大きく威厳《いげん》に満ちた狼《オオカミ》の体を有する自分にはとても似合わない。  似合わないから、それが似合うこの人の姿に化けられる幸運に感謝している。  しかし、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。  相手を策略に陥《おとしい》れるためならまだしも、自分が無意識のうちにそうしてしまうのは、とても恥ずかしいことだ。  扉《とびら》がノックされる。  返事もせず、扉とは反対|側《がわ》を向いた。  しばしの沈黙《ちんもく》を経て、やがて扉《とびら》が開かれた。 「……」  いつも眠《ねむ》る時は毛布の中に頭をしまい込んでいるので、毛布から頭が出ていれば大抵《たいてい》は起きている。  連れもそう思ったらしく、小さいため息を一つついて、ゆっくりと扉を閉めた。  それでもこちらは連れのほうを見ないで、そっぽを向いたまま。  か弱い娘《むすめ》が好きな連れのことだから、床《とこ》に伏《ふ》せた自分にはさぞ甘いに違《ちが》いない。勝ちは目に見えている。  連れがベッドの横に立った。  いざ、狩《か》りに!  そう思い、満を持して連れのほうを向いた。  あくまでも、弱々しく。  そして、わずかに嬉《うれ》しそうに。 「……っ……」  なんと言ったのかは自分でもわからない。  多分、弱々しさを演出するためには効果的だと思ったのだろう。  しかし、あとから考えるとこれはきっと驚《おどろ》いていたのだろうと思った。  なにせ、振《ふ》り向いた視線の先には、おろおろと心配そうにしている連れの顔がなく、代わりに、怒《いか》りに目を尖《とが》らせた顔があったからだ。 「なぜ体調が悪いことを黙《だま》っていた?」  そして、一言めがそれだった。 「……」  驚きで声にならない。  よもや怒《おこ》られるとは、それこそ夢にも思わなかったからだ。 「子供じゃないんだ。倒《たお》れるまで気がつかなかったとか言うつもりはないな?」  初めて見る、連れの真剣《しんけん》に怒った顔。  取るに足りない歳月《さいげつ》しか生きておらず、その知恵《ちえ》も体つきも貧弱で、この賢狼《けんろう》の足元にも及《およ》ばないとはこのことなのに、その顔はとても怖《こわ》かった。  言葉が出ない。  これまで砂浜の砂の粒《つぶ》の数ほど生きてきているのに、怒られたことなど片手で楽に数えられる回数しかない。 「まさか、酒と肉がそんなに惜《お》しかったのか」 「なっ!」  いくらかは自分の見栄《みえ》のために黙っていたことは認める。  だが、もう半分は違《ちが》う。祝宴《しゅくえん》のご馳走《ちそう》目当てで体調の悪さを隠《かく》していたなどということは決してない。  不本意ながらも神と呼ばれて長いこと暮らしていたのだ。祝宴の大切さは知っている。それは決して乱してはならない。壊《こわ》してはならない。  それを、そんな浅はかな理由などと……。 「……悪い。悪かった。今のは俺の失言だ」  連れははっと我に返ったように、そう言った。大きくため息をついて、顔を背《そむ》ける。  それで初めて、自分が牙《きば》を剥《む》いていたことに気がついた。 「わっちは、そんなことを」  思っていたのではない、というのは、言葉にならなかった。  口が渇《かわ》いていたのもあるし、それ以前に、こちらを再び向いた連れの顔が、口を閉じるのに十分なものだったからだ。 「本当に、心配したんだ。これが旅の途中《とちゅう》だったらどうするつもりだったんだ?」  それで、なぜ連れがこんなに怒《おこ》っているのかがようやくわかった。  旅から旅の行商人だ。  旅の途中で体調を崩《くず》しても、頼《たよ》れる仲間が側《そば》にいるとは限らない。  むしろ、ただ一人|荒野《こうや》で苦しむことのほうが多いはずだ。  旅の途中の粗末《そまつ》な食事や、野宿の辛《つら》さを思い出す。  そこで体調を崩すことは、大袈裟《おおげさ》ではなく、死を意味する。  孤独《こどく》だ孤独だと言いながら、常に誰《だれ》かしらが側にいた生活に慣れている自分とは、違うのだ。 「……すまぬ」  かすれた声で、ぼそぼそと言ったのは、演技ではない。  連れは底なしのお人好《ひとよ》しだから、本当に心配してくれたのだろう。  それをよそに自分のことしか考えていなかったのがあまりにも恥《は》ずかしい。  とても連れの顔を見ていられず、首をすくめた。 「いや……お前が無事ならいいんだ。風邪《かぜ》とか、なにか、病じゃない……んだろう?」  その言葉は、嬉《うれ》しいながら、悲しくもあった。  聞き方が、やや臆病《おくびょう》だったからだ。  臆病になる理由は明白だ。  自分は狼《オオカミ》で、相手は人。  理解の及《およ》ばない存在、というのがこういうところに出る。 「疲《つか》れが……出ただけじゃろう」 「やはりそうか。病だったら俺も多少はわかるからな」  半分は嘘《うそ》だとわかった。  しかし、それは指摘《してき》してもしょうがないし、怒《おこ》ったところでもっとどうしようもない。 「ただ、もしかしたらと……」 「?」  言いよどんだので、目で聞き返すと、連れは少し申し訳なさそうに答えた。 「タマネギとか食ったんじゃないかと」  目を見開いてしまったのは、怒ったからではない。  ちょっと面白《おもしろ》かったのだ。 「わっちゃあ……犬ではありんせん」 「ああ、賢狼《けんろう》だからな」  ようやく連れが笑ってくれたと思った直後、自分のほうも久しぶりに笑ったことに気がついた。 「じゃが、酒と馳走《ちそう》がもったいなかったとは、思っておる」  それには連れのほうが「お」という顔になった。 「俺は商人だからな。そこのところは抜《ぬ》かりない。残ったものは包んでもらってきてある」  またしても牙《きば》を剥《む》いてしまう。  だが、それはおかしくて唇《くちびる》がつり上がってしまうからだ。 「と、言いたいところだが」  連れは笑顔《えがお》を消して、すっと手を出してきた。  ごつくもないが、楽をしてきたという手でもない。  自分のそれとは明らかに違《ちが》う、どちらかというと狼《オオカミ》の手のほうがよほど近いといえそうな硬《かた》い皮に覆《おお》われた手。  まず、指が前髪《まえがみ》を丁重に掻《か》き分けて、額に触《ふ》れた。  連れの手が顔に触れるたびに、とても落ち着かなくなる。  その指の感触《かんしょく》が、狼の鼻のそれとまったく同じなのだ。  鼻を顔にこすりつけてくるなど、ちょっと親密に過ぎる。  もちろんそんなことは顔に出さず、連れももちろん意識していないだろう。  至極《しごく》当たり前といった感じで、掌《てのひら》を額に当てた。 「ああ、やっぱり熱があるな。相当|疲《つか》れてたんじゃないのか」 「ぬしがたわけのせいで……わっちまで働く羽目になったからの」  憎《にく》まれ口《ぐち》を叩《たた》くと、連れの乾《かわ》いたかさかさの指で軽く鼻をつままれた。 「空《から》元気はほどほどにな」  皮肉っぽい笑みを浮かべているくせに、その言葉がどこまでも本気なのがよくわかった。  恥《は》ずかしくて、とても見ていられない。  鼻をつまむ指から逃《のが》れるように顔を背《そむ》けて、毛布の陰《かげ》から片目だけ向けた。 「まったく、ノーラの前でとんだ大恥《おおはじ》だったんだ」  それが祝宴《しゅくえん》を台無しにされたから、と思って体をすくめたのは一瞬《いっしゅん》だった。  きっと、それだけ動転してくれたのだ。  こんなことを言われたら、大して体調が悪くなくても、悪いふりをするにやぶさかではない。 「だから、しばらく肉はお預けだ」 「う」  そんな殺生《せっしょう》な、と視線を向けたところ、呆《あき》れ顔で見つめ返された。 「その代わり病人食を用意してやるから、きっちり体力を戻《もど》すんだな。そうしたら、肉と酒を好きなだけ食べればいい」  好きなだけ、という言質《げんち》にも耳がピクリと動いてしまったが、なにより病人食というのに胸がときめいてしまった。  何百年と居座った村のみならず、見聞きしてきた人の世界では人が病に伏《ふ》せるとずいぶん豪華《ごうか》な食べ物を食べさせてもらえるのだ。  狼《オオカミ》からすれば体調が悪くなったらなにも食べないのが当たり前だが、人は逆の発想をする。  これは当然無理をしているというふりをするしかない。  なにより羊|飼《か》いの娘《むすめ》から、ようやくこちらのほうを向いてくれたのだ。  もう、逃《に》がさない。 「ぬしが優《やさ》しいとあとが怖《こわ》い」  連れが一番喜びそうで、なおかつ空《から》元気に見える憎《にく》まれ口《ぐち》を選ぶ。  賢狼《けんろう》たるもの疲労《ひろう》のあまりに倒《たお》れろくに体は動かずとも、頭だけは働かせなければならない。  連れは笑って、こう言った。 「それはこっちの台詞《せりふ》だ」  熱が少し出てきたかもしれない、と目を閉じたのは、連れの指が頬《ほお》に触《ふ》れた直後だった。  翌朝、毛布の下で目を覚ますと、真っ先に耳を澄《す》ましてみた。  間抜《まぬ》けないびきは聞こえない。どうやら連れは部屋にはいないらしい。  ついで、自分の体に話しかけてみる。やはり単なる疲《つか》れだったようで、まだちょっと生の羊はいけないだろうが、よく焼いて塩を利《き》かしたものなら十分にいけそうだった。  昨晩はひとまず寝《ね》ておけということで病人食はおあずけになった。  体調万全でうまいものが食えるなどなかなかあることではない。  一月《ひとつき》にも満たぬ旅とちょっとした騒動《そうどう》だけで熱が出るほど弱い人の姿にため息を一つつきつつも、これもまた悪くないかとほくそ笑《え》む。  なにより、弱いからこそ連れの前ではこの姿でいたいのだから。 「たわけじゃな」  それは明確に自分に向けて、もそもそと毛布の下から顔を出した。  広い景色《けしき》の中で目を覚ました時の爽快《そうかい》感に慣れていると、この狭《せま》い箱の中での目覚めはあまりよいものではない。  これならば狭かったり寒い思いをしても荷馬車の荷台のほうがよい。  目を覚まして、立ち上がると広い空の下、吸っても吸いきれないたくさんの空気を感じ、そんなだだっ広い景色の中二人きり、という状況《じょうきょう》のほうが断然よい。天井《てんじょう》が許せるとしたら、それが大きな木の洞《うろ》のものである時だけ。  そんなことを思いながら、顔を横に向ける。  隣《となり》のベッドにはやはり人影《ひとかげ》がなく、鼻をひくつかせてみても連れの匂《にお》いはとても薄《うす》かった。  まさか健康回復を願って教会にでも行ってお祈《いの》りをしているのだろうか。  ありえないだろうが、もしもそうなら悪い冗談《じょうだん》としては一級品だ。  そんなことを思って小さく笑ったが、誰《だれ》もいないのですぐに冷めてしまった。  今日も冷たい空気に向かって白い息をふうっと吐《は》くと、麦殻《むぎがら》の詰《つ》まっているらしい枕《まくら》をぎゅっと抱《だ》きしめた。  あのお人好《ひとよ》しは、本当に、気が利《き》かない。 「たわけが……」  呟《つぶや》いてから、体を起こそうとしてその重さにびっくりした。  思えば人の姿で体調を崩《くず》したのは何百年ぶりかだ。  たった一晩でこんなにも衰弱《すいじゃく》するものかと、ようやく気がついた。 「むう」  尻尾《しっぽ》の毛づくろいでもしようかと思ったのだが、体を起こすのは諦《あきら》めた。  とすれば、飯だ。喉《のど》も渇《かわ》いている。昨晩は結局ほとんどなにも食べていない。  連れはどこに行ってなにをしているのか。  大体、ヨイツでは看病といえば側《そば》に寄り添《そ》っていることだった。  目を覚まして隣《となり》にいないなどとは言語道断、と好き勝手に胸中で罵《ののし》っていたら、足音が聞こえてきた。  体を起こす代わりに、耳がぴんと起きる。  悔《くや》しくて、枕を再び抱きしめた。  連れが側にいなくてよかったかもしれない、と一瞬《いっしゅん》だけ思った。 「起きてるか?」  ためらいがちのノックのあと、静かに扉《とびら》を開けた連れはそう言った。  寝《ね》ていれば答えられるはずがないし、起きていればその質問は無意味だ。  そんなことを思いつつ、「見ればわかるじゃろう」と答えておいた。 「体調はどうだ」 「起き上がれぬ」  これは嘘《うそ》ではないので、なるべく気楽な調子で答える。  裏の裏は表。  どうせ嘘なんだろう、と口では言いながら、連れの顔は心配そうだ。  その手に持たれている革袋《かわぶくろ》に目をやってから、もう一度その情けない顔に目を向ける。  こんなに可愛《かわい》くては、本当にこちらの立《た》つ瀬《せ》がない。 「確かに……顔色がまだ深窓の姫《ひめ》みたいだな」  どうやら冗談《じょうだん》めかすほどに顔色は悪いらしいが、飯を食べていないのだから当然だろうとも思う。 「じゃが、腹は減った」 「はは。それなら安心だ」  連れは笑って、「それじゃあ」と言葉を続けた。 「粥《かゆ》を作ってもらってくるか」 「喉《のど》も渇《かわ》きんす。それ、水かや」  連れが手からぶら下げている革袋に視線を向けて訊《たず》ねる。大した量ではないし、少なくともかぐわしい葡萄《ブドウ》の香《かお》りはしない。 「ああ、いや、お前昨日熱があっただろう? だから、りんご酒をな」  林檎《リンゴ》と聞いては寝《ね》てなどいられない。  体を起こそうとして、毛布の重さを思い出した。 「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か」 「むう……」  落雷で倒《たお》れた巨木《きょぼく》の下敷《したじ》きになった仲間すら楽に助け出せたのに、今や自分は毛布の下から救い出される始末だ。  連れは心配そうにしながらも、ちょっと嬉《うれ》しそうに手を貸してくれた。 「すまぬ」  他人の手を借りてようやく、体を毛布の下から引っ張り出して、起こせた。  尻尾《しっぽ》が邪魔《じゃま》にならないように腰《こし》に枕《まくら》をあてがうのも、連れがしてくれた。  人の姿はかほどに弱い。  でも、それだからこそ、この姿には意味がある。 「このおとなしさの半分でも日頃《ひごろ》のお前にあればな」  ベッド脇《わき》には燭台《しょくだい》を置く釣《つ》り棚《だな》がある。そこにろうそくの代わりに置かれていた木のコップにりんご酒を注《つ》ぎながら、連れは意地悪そうに言ってきた。 「おとなしく荷馬車で寝ておるとぬしは怒《おこ》るじゃろうが」 「……だって俺だけ起きているなんて不公平だろう」  コップを手|渡《わた》されて、小さいそれを両手で受け取った。 「それに、おとなしくしておったら飯の時にぬしに多く食われてしまいんす」 「体が大きいんだから当然だろう」  その言葉に、にまりと笑って、こう答えた。 「じゃから、対抗《たいこう》するために態度を大きくしなければいかぬ」  連れの顔が不満そうに歪《ゆが》み、それでもどう切り返していいか思いつかなかったのだろう。不機嫌《ふきげん》そうに頭を掻《か》いた。  感心したり、敬服したり、そんな堅苦《かたくる》しいものではないこの反応。  次こそは勝つ、というその顔は、自分と同じ目線に合わせてくれているからこそ。  それが、とても心地《ここち》よい。  それどころか、どうにかして自分よりも優位に立とうとすらしているところが、たまらなく嬉《うれ》しかった。  早く組み伏《ふ》せてくりゃれ? と言ったらきっと顔を真っ赤にして慌《あわ》ててくれるだろう。  その様を想像して笑ってしまい、そんな笑《え》みを飲み込むためにコップに口をつけた。  するりと顔から笑顔が消えたのは、その笑顔までもを飲み込んだからではない。 「ん、む?」  コップから口を離《はな》し、まじまじと中身を見る。  中身は薄《うす》い琥珀《こはく》色の液体。  連れが、「どうした?」と言葉を向けてきた。 「うむ……味が……」  言いながら自分の鼻が馬鹿《ばか》になったのかと指でこすってみる。  それからもう一度|匂《にお》いを嗅《か》いでも、ほとんど林檎《リンゴ》の匂いなどしないし、酒の香《かお》りも感じられなかった。  途端《とたん》に不安になる。  耳と鼻は、目よりも大事なのに。 「ああ、薄めてあるからな」  さらりと言われた連れの言葉に、ほっと胸を撫《な》で下ろしたのもつかの間、すぐに湧《わ》いてきたのはちょっとした不満だ。 「薄めすぎじゃろうが。鼻が馬鹿になってしまったのかと思いんす」 「お前、熱があっただろう? だから、薄いりんご酒なんだよ」  さも当然、とばかりに言われるが、よくわからない。  なにが、だから、なのか、眉《まゆ》をしかめて目で聞き返してやった。 「ん、そうか、お前この手の知識はないのか」 「わっちは賢狼《けんろう》じゃからな。世の中には自分の知らないことがたくさんある、ということくらいなら知っておる」 「昔の人たちのたくさんの経験から作られた医術というものがある。お前が倒《たお》れたから、商館に行ってありがたい医術書の翻訳《ほんやく》を慌《あわ》てて紐解《ひもと》いてきたんだぞ」  医術、と言われてもぴんとこない。  村人が病に伏《ふ》せれば草を煎《せん》じて飲ませるか、怪我《けが》をすればそれを貼《は》り付けるか、あとは村人が勝手に作り出したいもしない神や精霊《せいれい》に祈《いの》るくらいしかない。  ヨイツであれば、なめるか、見守るかくらいしかない。  ただ、知らないことには興味がある。  もう一度コップの中身をふんふんと嗅《か》いで、「で、それはどんなものじゃ」と訊《たず》ねた。 「まず、人の体には四つの液体と、四つの状態がある」 「ほう」 「四つの液体とは、すなわち、心臓から出る血液、胆汁《たんじゅう》、黒胆汁、粘液《ねんえき》」  指を一本ずつ立てながら得意げに語るが、そんなことを言われてもまったく信じられない。  しかし、とりあえずは黙《だま》って聞くことにした。 「病とは大体この四つの液体の釣《つ》り合《あ》いが崩《くず》れることによって起こる。それは疲《つか》れとか、よくない空気とか、あとは、星の運行によっても左右される」 「ふむ。ああ、それはわかりんす」  薄《うす》く笑って、こう言った。 「満月になると体がうずいてしまったり、の」  顎《あご》を引いて上目遣《うわめづか》いに見てやると、連れがどきりとしたのがよくわかった。  まったく、雄《おす》にしておくのはもったいない純情さだ。 「ま、まあ、そういうこともあるかもしれない。海の干満のようなものだ。で、だ。四つの液体の釣り合いが崩れた時は、血を抜《ぬ》いたりしてその釣り合いを図る」 「……人はおかしなことを考えるの」 「腫《は》れ物《もの》ができたらつぶしたりするだろう?」 「え!」  びっくりして連れの顔を見た。  しまった、と思ったのはその顔がにやりと笑ったからだ。 「人はつぶして治すんだよ。楽しみだな?」  そんな野蛮《やばん》なことをさせるかとそっぽを向いて無視をした。 「で、そういう方法で体調を戻《もど》すのもあるんだが、医者にかからないといけないからな。ご大層な耳と尻尾《しっぽ》を生やしているとなんの病気かと大|騒《さわ》ぎになってしまう。だから医者にはかかれない。そこで、もう一つの、人が取る四つの状態を利用して、治す」  耳をひくひくと動かして、視線を片目だけちらりと向けた。 「四つの状態などといって、どうせ喜怒哀楽《きどあいらく》じゃろうが」 「惜《お》しいな。そうではない。人の体には、熱い、冷たい、乾《かわ》いている、湿《しめ》っている、という状態がある」  ほとんどなんの味もしないりんご酒を軽く飲んでから、自分の掌《てのひら》を見てみる。  なんだか、当たり前すぎることを言われていて、馬鹿《ばか》にされているのかとすら思う。 「そして、それは大体食べ物によって調節することができる。食べ物もまた、熱い食べ物、冷たい食べ物、乾いている食べ物、湿っている食べ物に分類できるからだ。だから、お前は熱があったから、冷たい食べ物である林檎《リンゴ》がちょうどよい」  あれこれに意味をつけたがるのは人間の習性といっていい。  長い年月に渡《わた》って人の生活を見てきて断言できることの一つだ。  次から次へと色々|面白《おもしろ》いことを考えるなあと、むしろ感心してしまった。 「それなら、わっちゃあ生の林檎のほうがよかったんじゃが」 「それじゃあ駄目《だめ》なんだ。林檎は冷たいが、医術の上では乾いている食べ物だからな。体調の悪い人間は乾いているから、湿らせないといけない。そのために、飲み物である必要がある。ただ、強い酒は熱いから、それを薄《うす》めて、冷まさないといけない」  それでこんな、水にちょっと色がついたようなまずい代物《しろもの》になっているのかとため息をついた。  連れは仕込んだばかりなのか、それとも昔からこの手のことに頼《たよ》っているのか、とにかく得意げな顔をして喋《しゃべ》っているので、きっとそれは無意味なことだと指摘《してき》してもそれこそ無意味だろう。人という同じ種の中であってすら、国が異なるとやっていることがまったく異なることくらい知っている。  それが人と狼《オオカミ》となれば、まあ、信じるものがこれほど異なっていても当然だろう、と諦《あきら》めた。 「それで、わっちは他《ほか》になにを食べさせてもらえるのかや」 「ああ。お前は疲《つか》れて倒《たお》れてしまったということだからな。藁《わら》ですら重ねておけば熱を持つ。疲労《ひろう》が蓄積《ちくせき》して熱が出たとあれば、まずそれを冷ます。また、体が乾いているはずだから、湿り気を取り戻《もど》す。走ったあとは喉《のど》が渇《かわ》くだろう? しかし、湿り気は体を冷やし、冷やしすぎると人は憂鬱《ゆううつ》になる。よってしかるのちに温めなければならない。以上から……」  げんなりと話を聞きながら、病人食といわれて期待してしまった自分の浅はかさにため息をついた。  しかし、それもまた早計だったと気がついたのは、あとに続いた連れの言葉を聞いた瞬間《しゅんかん》だ。 「以上から、そうだな。麦を羊の乳で煮《に》込んだ粥《かゆ》に、林檎の切り身を入れて、チーズを添《そ》える、といったところか。これはだな、まず林檎が——」 「うむ、それでよい。わっちゃあそれが食べたい。いや、食べなければ倒《たお》れてしまう。見てくりゃれ? こんなにも顔色が悪い。ほれ、ぬしよ、早く持ってきんす!」  そんなうまそうな粥《かゆ》の話を聞いたら、ぐううう、と腹が鳴るのを抑《おさ》えられるわけがない。  今にも口の端《はし》からこぼれ落ちそうな涎《よだれ》を拭《ぬぐ》って、そう叫《さけ》んだ。 「……お前、本当はもう全快してるんじゃないか?」 「む……眩暈《めまい》が……」  そんな都合よく眩暈が起きるわけがないのに、そう言われてふらりとコップを落としそうになれば手を差し伸《の》べずにはいられないお人好《ひとよ》しの連れだ。  しなだれかかるようにその腕《うで》に体を預け、ここぞとばかりの上目遣《うわめづか》いでこう言った。 「早くしてくりゃれ?」  ちょっと顔の距離《きょり》が近すぎたのか、連れの顔が途端《とたん》に赤くなる。  まったく、病にかかっているのはどっちだかわかったものではない。  ただ、血を抜《ぬ》いたほうがいいかもしれない、というのは、なるほど人の知恵《ちえ》のとおりではないかと胸中で笑った。 「ったく……で、りんご酒はもういいのか?」 「ん、まあ、これはこれでよい」  と、コップを再度受け取って、一口飲む。  せっかく連れが自分のために用意してくれたのだ。  まずいからといって突《つ》き返すのは、ちょっと気がとがめた。 「粥《かゆ》は大盛りでな」  そう言葉を返すと、連れのほうは返す言葉もないようだった。  どれくらい待ったのか、実はわからなかった。  どうせすぐには来まいと思い、毛布の下に潜《もぐ》ったらあっという間に眠《ねむ》りに落ちてしまっていた。目を覚ましたのは、それくらいいい匂《にお》いに鼻を小突《こづ》かれたから。  しかし、あまり気分が良くないのは、体調が悪いというよりも、嫌《いや》な夢を見たからだ。  故郷の夢。それから、麦畑の夢。  郷愁《きょうしゅう》を伴《ともな》うが、同時に抱《かか》えきれないくらいの嫌悪《けんお》も伴う夢。  もろもろの上に立つ存在として、その責をごくりと飲み込んで過ごしていた時のことだ。  世は一つの森で、土がしっかりしていなければそこに木は生えない。だから、ヨイツの賢狼《けんろう》はどっしりと構え、もろもろの土台とならなければならない。自分がそれを放棄《ほうき》すれば、森はあっという間に枯《か》れ果ててしまう。  頼《たの》み、頼まれしたわけでもないのに、誰《だれ》かがやらなければならないその責務。  気がついた時にはずっしりと首に食い込んでいた、重い、重い、伽《かせ》。  いや、いつのことかはわからないが、生まれた時からそうだったのだろう。  周りとは違《ちが》う存在。  たとえ人の姿にその身を変えても、千人の中ですらすぐにわかるその異形《いぎょう》。  力があるから頼《たよ》られ、姿がでかいから崇《あが》められ、役に立つから尊ばれる。  だから、彼らはそれにかしずくのが当たり前だと思い、そうするのだ。  そうすれば自分たちに益があるからと、その一心で。  ただ、彼らは崇める時にご利益《りやく》と共に威厳までをも要求する。崇める相手が貧相ではご利益など期待できはしないからだ。  こちらが崇めてくれと頼んだわけでもないのに、彼らを見放せないばっかりに、その檻《おり》の中に閉じ込められる。  彼らは崇める相手がいなければ、怯《おび》え、狂《くる》い、過酷《かこく》な四季の移ろいの中で散り散りになってしまうからだ。  馬鹿《ばか》なこととはわかっていても、どんなに苦しくても、彼らを見捨てられはしない。  頼んだわけでもないのに、頼まれたわけでもないのに、そうやって、幾《いく》百年。  うまい食べ物の匂《にお》いは嗅《か》ぎなれた。  しかし、それに鼻をひくつかせた時に、絶対に、こんな、親しみにあふれた笑《え》みを見せてくれはしなかった。  それがたとえ、身《み》の程《ほど》知らずの、生意気なものであっても。 「起きれるか?」  体は刻一刻と回復して、今なら毛布の下から這《は》い出ることくらい造作《ぞうさ》もないはずだ。  ただ、寝《ね》ぼけ眼《まなこ》のまま首を横に振《ふ》った。  檻《おり》は過去のものとなった。  ずっと夢見たことを実現できるようになった。  仔《こ》のように振る舞《ま》うこと。わがままに、そのくせ無力に。  そして、誰《だれ》かに守られるように。 「まったく、俺が体調悪くなったら借りを返してくれるんだろうな?」  寝起きということもあって脱力《だつりょく》しきっていたので、きっと傍《はた》から見たら猫《ネコ》かなにかを寝床《ねどこ》から引きずり出しているように見えたことだろう。  恥《は》ずかしくもあったが、一度やると、もうやめられない。 「ヨイツの狼《オオカミ》の流儀《りゅうぎ》でよければ、の」  にやりと笑みを浮かべたのは、自嘲《じちょう》のそれを隠《かく》すため。  どちらにしろ連れは少し顔を引きつらせたが、その看病の仕方を聞けば喜びそうなものだ。  なめるか、ずっと側《そば》にいるか。  もちろん、聞かれないのに答えてやる、というほど親切ではないが。 「大丈夫《だいじょうぶ》。わっちゃあ鼻が利《き》くからの。こんなふうになる前に気がついてどうにかしんす」  そう言ったあとに、倒《たお》れるまで気がつかずに他《ほか》の雌《めす》と楽しげに話すなんてこともありんせんが、とつけくわえようかとも思ったが、それはやめておいた。  楽しげは楽しげではあったが、連れは自分の仕事というものを弁《わきま》えている。  あの場では楽しげにするのが連れの仕事。  そう言って、自分を納得《なっとく》させた。 「まあ、気がつかなかったのは悪かったよ。だが、お前のほうからもできれば言って欲しい。とにかく俺は、そう。鈍《にぶ》いらしいからな」  肩《かた》をすくめて、連れはそう言った。 「そうじゃろうな。きっと、大きな病にかかってもそう簡単には気がつかないじゃろう」 「え?」  連れはきょとんとした目を向けてくるが、その先は言ってやりはしない。  ここで上手に言葉がつなげないくらい鈍いのだ。  恋の病。  これに気がつくのは、きっと、よほど末期の頃《ころ》に違《ちが》いない。 「なんでもありんせん。それより、飯」  そう言うと、連れは途端《とたん》に子供のように眉《まゆ》をしかめた。  人は見た目で相手を判断する。  人の小娘《こむすめ》の姿をしている自分に負けるのが悔《くや》しいのだ。  少し複雑な気もしたが、それはそれで心地《ここち》よい。  人の世に流布《るふ》する聖典でだって、神でさえもぼろを着て道を歩いていれば神は堅苦《かたくる》しい思いをしなくてすむ、と皮肉っているではないか。 「まったく、どこのお姫《ひめ》様だ……」  ぶつぶつと言いながら、それでも粥《かゆ》の入った鍋《なべ》の蓋《ふた》を開けて、皿を手に取った。  お姫様に悪態をつく兵士などいない。  にやにやと笑いながら、甘えついでにこう言ってやった。 「匙《さじ》にすくって、口に運んでくりゃれ?」  その言葉にどきりとした連れの顔は、とても兵士など務まりそうにない、情けない面《つら》だった。 「林檎《リンゴ》がもっと多いほうがよかったのに」 「かもな。冷たいりんごは人を憂鬱《ゆううつ》にする」 「わっちが……あぐ……わっちが、陽気に過ぎるとでも?」  木の深皿にたっぷり二|杯《はい》。  最後の一匙を口に運んでもらって、そう言った。 「少しはおとなしくなってもいい、という意味だ」  最初のうちは、照れのせいかぎこちなかったり危なっかしかったりしたものの、開きなおりかはたまた慣れか、後半はとても心地よく食べることができた。  口を開けているだけで食べ物を運んでもらえるなど、鳥の雛《ひな》にでもなったような気分だ。  これで毛づくろいもしてくれるとよいのだが、さすがに尻尾《しっぽ》のそれは任せられない。  小さくげっぷをすると、連れは少し眉《まゆ》をひそめていた。 「じゃが、わっちゃあこの間の町で散々林檎を食べたじゃないかや」 「ああそうそう。それで食いきれなくて、憂鬱になってたじゃないか」 「む」  まったくそのとおりだと思い当たったが、あれは林檎の味とか性質がどうこうではなく、単純に買いすぎたせいだったような気もするが。 「俺はもうしばらく林檎は食べたくない」  一人で食べきると宣言したものの、結局連れに手伝ってもらった。  ただ、一人で食べるより二人で食べたほうがとてもおいしいと学ぶことができた。  決してそんなことは、口に出して言ってやりはしないが。 「しかし、こんだけ食べられれば一安心だな。すぐ、明日か、明後日《あさって》には治るだろう」  鍋《なべ》と皿を片づけながら連れは、そんなことを言った。 「まあ、焦《あせ》ることはない。この町を出たらまたしばらく荷馬車の上だ。ゆっくり養生《ようじょう》すればいい」  連れは嘘《うそ》を嘘と見|抜《ぬ》けないお人好《ひとよ》しだ。  いや、相手が嘘をつくなどとは疑わないお人好しかもしれない。  罪悪感がじわりと胸のうちに広がるが、顔を上げた連れと目が合って、一瞬《いっしゅん》息が止まってしまった。  その心配そうな目。  これは、とても、よくない。 「……旅が遅《おく》れて、すまぬ」  気がついたら、そんな言葉が口から出ていた。  この好機を逃《のが》すことは、とてもできなかった。 「お前を拾った時点で急ぎの旅は諦《あきら》めてるよ。それに、雨降って地固まるというやつで、この町での信用も取り戻《もど》して、前より良くなったくらいだからな。その得を考えたら、二、三日くらい遅れたって構わない」  胸中で呟《つぶや》いてしまう。  こんなお人好しの荷馬車に乗ることができて、人が崇《あが》めるという幸運の神に本当に感謝したいくらいだ。  お人好し、お人好し、と軽蔑《けいべつ》と嘲笑《ちょうしょう》を含《ふく》めた言い方をしないとそれはあっという間に別の呼び名に変わってしまいそうで怖《こわ》かった。  側《そば》にいて欲しい。  食器を片づけて宿に返してこようと部屋を出るその素振《そぶ》りが見えただけで、こんなにも尻尾《しっぽ》がざわめいてしまうのだから。 「しかし、ぬしよ」 「ん?」  連れは、正視できないほどに無垢《むく》な目を向けてきた。 「宿は……その、静か、すぎるから……」  恥《は》ずかしさのあまりに語尾がかすれてしまった。  しかし、きっと連れはこれを演技だと思ってくれたはずだ。  そして、同時に演技でありながら本音なのだと察してくれたはず。  少し驚《おどろ》いて、それから、笑ったのが目を伏《ふ》せていても、気配でわかった。 「確かに、荷馬車の上はやかましいものな。どの道今日は俺もやることがない。それに、大飯《おおめし》喰らいの誰《だれ》かさんの夜の献立《こんだて》も相談しないといけないからな」  だから、側《そば》にいてくれる。  まるで、幼子《おさなご》のようなこんなわがまま。  連れはやれやれと笑っていて、こちらはわざとすねるように顔を背《そむ》けてやる。  邪魔《じゃま》もなく、一点の曇《くも》りすらないやり取り。  幸福というものに形があるのだとしたら、これが、そうなのかもしれない。 「で、なにか大雑把《おおざっぱ》な希望はあるか。細かいことはまたあとで医術書をめくるとして、市場が閉まると用意できなくなるからな」 「む。うーむ……」 「一応元気そうだが、その中身までそうとは限らないから、重いものは駄目《だめ》だ」 「肉も?」  上目遣《うわめづか》い。  これは、演技。 「だめだめ。粥《かゆ》か、パンを浸《ひた》したスープか……」 「むう……ならば、さっきのそれ、羊の乳だったかや」  連れの抱《かか》えている食器を指差して言うと、連れはうなずいた。 「甘い香《かお》りと、濃《こ》い味がおいしかった。それがよい」 「羊の乳かあ……」 「なにか問題が?」  聞くと、かぶりを振《ふ》られた。 「腐《くさ》りやすいからまともなやつは午後になると値が上がるんだよ。新鮮《しんせん》なのをお望みだろう?」 「もちろん」  牙《きば》を見せて笑うと、連れは肩《かた》をすくめた。 「まあ、ならまたノーラに探してもらうか。さすが羊|飼《か》いだけあって目利《めき》きはなかなかの……」  もの、という言葉は、永遠に出てこなかった。 「ノーラ、じゃと?」  聞き返していた。  自分の表情がどうなっているのかわからないくらいに、反射的に聞き返していた。  連れは禁忌《きんき》の言葉を口にしてしまったというくらいに、しまった、という顔をしていたので、そういう顔なのだろう。  穏《おだ》やかな空気がいっぺんに消し飛んでしまった。  羊の乳の目利き、ということは、自分が寝《ね》ているあの間に、連れは、町をあの羊飼いの娘《むすめ》と一緒《いっしょ》に歩いていたのだ。  憎《にく》き羊|飼《か》いと。  二人で。  眠《ねむ》っている間に! 「いや、単に、お前のために、良い乳を手に入れようと思ってだな……」 「金に物を言わせれば目利《めき》きもくそもないじゃろうが」  唸《うな》りながら、恨《うら》むようにそう言った。  裏切り者、裏切り者、裏切り者、と胸中では叫《さけ》んでいる。  そんな、こちらが怒《おこ》るような過《あやま》ちが起こっていないことなど、連れのこれまでのへたれ具合を見ればわかりすぎるほどにわかるのに、どうしたってそう思ってしまう。  羊飼いは、狼《オオカミ》にとって仇敵《きゅうてき》に相当するのだから。 「あ、あえて道案内を雇《やと》わない理由だってない。だ、だがな」  連れはえらいものを踏《ふ》んづけてしまったといった顔をしている。  慌《あわ》てて取《と》り繕《つくろ》いの言葉を紡《つむ》ごうとする。  ただ、自分でも理不尽《りふじん》だとわかるこの怒《いか》りは、そんな取り繕いが余計に怪《あや》しいなどと思わせる。挙句《あげく》の果てにそれを口に出そうとした、その瞬間《しゅんかん》のことだった。 「だが、なんでそんな、ノーラを目の敵《かたき》にするんだ?」  時間が、止まった。 「は?」  こちらの剣幕《けんまく》にのけぞるようにしていた連れの口から出た、あまりに予想外な言葉に、対処ができなかった。  ぽかん、と口を開けて、間抜《まぬ》けにも聞き返してしまった。 「な、なんと?」 「い、いや、あのな、過去に、お前が羊飼いとなにがあったのかは知らないし、お前が狼なのであれば気に食わないのはわかる。だが、そこまで敵意を剥《む》き出しにすることはないだろう? ノーラは羊飼いだが、なんというか……」  両手で鍋《なべ》と皿を抱《かか》えたまま、器用に指で頭を掻《か》く。 「ほら、あれだけ気立てがいいんだ。なにごとにも例外ってものが」  たわけ! と危《あや》うく叫びそうだった。  その叫び声が出なかったのは、疲《つか》れがまだ癒《い》えていないとか、賢狼《けんろう》としてはしたないとか、そんなことではない。  連れのそのたわけさ加減、まさしくそれそのもののせいで、叫ぶ気力すらなくなってしまったのだ。  確かに、自分だって何百年と孤独《こどく》に暮らしていた麦畑を出た直後は情緒《じょうしょ》不安定だったことは認めるし、会話のやり取りには細心の注意を払《はら》わなければならないくらいに、そのやり取りの仕方を忘れていた。相手の機微《きび》の察し方を忘れていたことも実感していた。  だから、荷馬車の上で長い年月一人で過ごしてきた連れが、この手の話に鈍《にぶ》くなるのも仕方のないことなのかもしれない、と思う。  ただ、それにしたって、気がつかないものか、と呆《あき》れてしまう。  無力なくせに窮地《きゅうち》に陥《おちい》っても諦《あきら》めないその不屈《ふくつ》さと、間抜《まぬ》けなくせに逆境でなお知恵《ちえ》を巡《めぐ》らせることのできる底堅《そこがた》さと、なんだかんだで情に甘く一見心が弱そうなのにここぞという時には矜持《きょうじ》を見せるその心意気を持っていて、なぜ、こんな肝心《かんじん》なところでどうしようもないくらいに愚図《ぐず》で愚鈍《ぐどん》だというのか、まったく理解ができない。  本当に、本当に気がついていないのか、と訝《いぶか》しんでしまう。  もしかして、こちらが試《ため》されているのではないか、とすら思う。  大体、このヨイツの賢狼《けんろう》が羊|飼《か》いを嫌《きら》う、というその構図そのもので気がつかないものだろうか。  狼《オオカミ》は羊を狩《か》るもので、羊飼いは哀《あわ》れで無力な羊を守るものだ。では、この構図の中で、狼は誰《だれ》で、羊飼いは誰で、羊は一体誰なのだ? それを考えれば立ちどころに不機嫌《ふきげん》な理由がわかるだろう。  こちらは羊飼いを嫌っているのではない。羊飼いが羊の傍《かたわ》らにいることにそわそわとしているのだ。  羊が羊飼いに守られぬように。羊飼いが吹《ふ》く笛に連れ去られてしまわぬように。無力で、間抜けで、なにも考えていなさそうだから、優《やさ》しそうで純朴《じゅんぼく》な羊飼いにぼんやりとついていってしまわぬように!  そんなことを考えて、最後に一つ、ため息をついた。  連れは相変わらずこちらがなにを考えているのかまったくわからないといった顔で立ち尽《つ》くしている。その姿は、まったく哀れで無知な羊そのものだった。  粥《かゆ》を匙《さじ》ですくってもらい、口に運んでもらうなどという甘ったるいことがもうまったく昔のように感じられる。  夢はほとんど実現しかけていた。  檻《おり》の中から解放されて、もう好きに振《ふ》る舞《ま》っても誰からも白い目を向けられず、わがままを言っても誰も困らなくなった。  だから、策を弄《ろう》し、言葉を弄し、一度でいいからそう振る舞ってみたかった。その思うままに仔《こ》のようにじゃれついていたのに、なんという有様《ありさま》だろうか。  結局、生来の間抜けには敵《かな》わない。  酒を飲み明かせば、酔《よ》っていないほうがつぶれたほうを介抱《かいほう》しなければならないのだ。 「ぬしよ」  やや疲《つか》れたような声になってしまったのは、実際に気疲れしてしまったからだ。  仔《こ》のように、無邪気《むじゃき》に、安心して、力|一杯《いっぱい》じゃれつくのはこんなにも大変なことなのかと思い知った。  やはり、狼《オオカミ》が羊の真似《まね》をしようとするのは、土台無理な話なのだろう。  連れはこちらのことを底の読めない羊の皮をかぶった狼と半ば思っているだろうが、それはこちらの責任ではない。  羊になりたくても羊になりきれないのは、連れのあまりの羊っぷりが悪いのだから。  二人して大|間抜《まぬ》けな羊では、揃《そろ》って崖下《がけした》に落ちてしまう。  だとすれば、どちらかが素面《しらふ》で相手を導かねばならない。  損。  生まれもった損だった。 「わっちが悪かった」  わざとふてくされ気味にそう言ったが、連れはあからさまにほっとしてくれた。 「じゃが、好き嫌《きら》いは理屈《りくつ》じゃありんせん。前も言った気がするが」 「ああ、それはもちろんそうだ。理屈で全《すべ》てが割り切れるとは思っちゃいない」  こちらの気持ちに理解を示すように連れはそんなことを言ったが、どうせこの言葉の本当の意味は理解していないのだ。  まったく、頭を撫《な》でさせはしても、やはりこれでは尻尾《しっぽ》の毛づくろいまでは任せられない。  果たしてそんな日は来るのだろうか。  疲《つか》れた目で連れのほうを見ながら、そんなことを思った。 「それでな、ぬしよ」  そして、そう言葉を続けると、連れはまだなにかあるのかと身構えた。  頭を撫でてやろうと近寄ったら一瞬《いっしゅん》体をすくませる犬のようだった。 「それ、置いてきたら、すぐ戻《もど》ってきてくりゃれ?」  これには、一転甘える笑顔《えがお》で言ってやった。  その変わり身の早さに一瞬|呆気《あっけ》にとられていたが、連れはさして間もなく頭を追いつかせた。さすがに、そこまでたわけではない。 「……ああ、わかったよ。宿は静かすぎるものな」  たわけなのは、上手に言葉をつなげたとご満悦《まんえつ》な顔をしてしまうところだ。  こんなこと当たり前すぎるくらいに当たり前のことなのに、まったく、信じられないほどのたわけっぷりだ。  そう思われているとも知らず、連れはようやく問題は解決されたとばかりにすがすがしい顔になっていた。 「じゃあ、ちょっと置いてくる。なにか飲み物は?」  もうなんだかため息すら出てこない感じだが、ここのところはなかなかよい心がけだった。  だから、ご褒美《ほうび》を出してやった。 「ぬしが薄《うす》めてくれたりんご酒がいい。早く体調を戻《もど》さんとな」  連れは、嬉《うれ》しそうに、本当に嬉しそうに笑う。  あんな顔をされたら、どうやって邪険《じゃけん》にすればいいというのだろう。 「では、おとなしく待っているように」  そして、そんな調子に乗った一言を残して、部屋から出ていった。  まったく底知れぬたわけといえたが、それの側《そば》でごろごろしている自分も同列といえば同列かもしれない。  平和で、安穏《あんのん》な時間。  これがどれほどかけがえのないものであるかは、十分にわかっている。  だから、上手に操《あやつ》って、温めて、ゆっくり楽しまなければならない。  ただ、一つ懸念《けねん》があるといえばある。  毛布の下に体をもそもそと沈《しず》めて、人がそうするように頭を枕《まくら》に沈めた。  連れはよほど乾《かわ》いた生活を送ってきたのか、ちょっと甘い言葉と態度を見せればころっと参ってしまうが、あんまり多用すればこの効果も薄《うす》くなってしまうだろうということだ。  生きとし生けるもの、どのようなことであれ繰《く》り返していればいつかは倦《う》み、飽《あ》きてしまうものだからだ。  だとすれば、なにか別の方法も考え出さなければならない。  さて、なにかあるだろうかと考えて、すぐに思いついた。  甘いものに飽きたのなら、塩気を用いればよい。  笑顔《えがお》で釣《つ》れなくなったらちょろっと目尻《めじり》に涙《なみだ》を浮かべればいい。  実に単純なことだ。  単純な羊には、とても効果的だろう。 「……む?」  と、そんなことを思ってなにか引っかかるものを感じた。一体なんだろうかと考えたのも一瞬《いっしゅん》で、原因はすぐに見つかった。昨晩のあの、倒《たお》れてしまった晩餐《ばんさん》でのことだ。  そこで話されていた羊の話。塩気があれば、延々となめ続けるという羊の習性のこと。それを思い出して、変なことを考えてしまったのだ。  顔に涙という塩気を載《の》せたら最後、連れに延々顔をなめられるという光景。  最初のうちはくすぐったかったりしてきゃっきゃ笑っていられるかもしれないが、きっとすぐに鬱陶《うっとう》しくなるだろう。連れには、どうも、そういう加減のわからなそうなところが見受けられる。なんだかあまりにも簡単に想像できて、ちょっとげんなりしてしまった。  やはり、あれの手綱《たづな》はきちんと握《にぎ》り、こちらの思うとおりに動かさなければならない。  まったく気苦労の多いことだと思い、寝返《ねがえ》りを打つ。  それでも、枕《まくら》に顔を沈《しず》めて、横向きに丸くなりながらくつくつと笑った。  こんなに楽しいことなど、本当に久しぶりだからだ。  なにが楽しいのかはよくわからない。色々と楽しいことがありすぎてどれが最大の理由かなど決められはしない。  ただ、強いて言うなら、あんなにも間抜《まぬ》けな羊であるというのに、一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないところがあることだろうか。  狩《か》りの妙味《みょうみ》にも似た、狼《オオカミ》の心に火をつけるなにかがある。  階下に食器を置いて、言葉どおりにすぐに戻《もど》ってきたらしい連れの足音が耳に届く。  胸が、小さく、とくんとくんと鳴る。  尻尾《しっぽ》がよじれて、耳がひくひくと動く。  鼻がむずむずして枕にこすりつけてしまう。  ああ、この捕《と》らえて捕らえきれぬ狩りの妙味!  足音が扉《とびら》の前で止まって、期待は最大限に高まった。  顔が笑ってしまい、扉のほうを振《ふ》り向いた。  そして開けられる、その向こうに立っていたのは。 「ホロ」  連れは笑顔《えがお》でそう言った。  その隣《となり》に、羊|飼《か》いの娘《むすめ》を連れて。 「ノーラさんが見|舞《ま》いに来てくれた」  まったく、一筋縄ではいかないものだ。  初夏の草原のように澄《す》んだ笑顔で微笑《ほほえ》みかけてくる羊飼いに、こちらも賢狼《けんろう》らしく笑顔で返せたのは、なにも長年の経験からではない。  楽しくて、笑うほかなかったからだ。  この、おおたわけの連れの手綱《たづな》を握《にぎ》りきるのは、まったく笑ってしまうくらいに難しい。 「お加減はいかがですか?」  羊飼いの娘、ノーラがそう訊《たず》ねてくる。 「なに、疲《つか》れが出てしまっただけでありんす」  この言葉に、このように返事を返さずに、どう返せばいいのだろう?  賢狼と呼ばれた頭脳を持ってしても、わからなかった。  この和《なご》やかなやり取りに、連れはよしよしと得意げな笑顔でうなずいている。  疲れが出ないわけがない。  それどころか、熱すら上がりそうだった。 「じゃが、ちょっと話し相手に飢《う》えていんす。じゃからな、前々から聞きたかったことを聞いてみたいと思うんじゃが」 「え? 私に、ですか?」  賢《かしこ》くても驕《おご》らないその謙虚《けんきょ》さは、なるほど、連れが参ってしまうのも無理はないと思った。 「私で答えられることでしたら」  そして、笑顔《えがお》。  油断ならない。確かにならないかもしれないが、狩《か》りをする身としてはせっかく言葉が通じるのだからこう聞いてみたい。 「羊を導く最大のコツというのはなにかや」  羊|飼《か》いの娘《むすめ》は、ちょっと意外な質問だったように眼《め》を大きくしたが、すぐにいつもの笑顔に戻《もど》っていた。  隣《となり》では相変わらず生意気な牧羊犬がこちらを油断なく窺《うかが》っている。  くすんだ灰色然とした純朴《じゅんぼく》な羊飼いの娘は、ゆっくりと、優《やさ》しげな笑顔でこう言った。 「広い心を持つことですね」  その答えを聞いた瞬間《しゅんかん》、風が吹《ふ》いたような気がした。  この娘は本物。  本物の羊飼いだと思った。  羊を飼うには広い心を持つ。  ちらりと連れを見て、そのとおりだなと、思う。  ノーラはその視線に気がついて、「あ」という顔を一瞬《いっしゅん》だけした。  聡《さと》い者であれば、もうこんなふうに一瞬で気がつくことなのだ。 「羊は、きっと自分は賢《かしこ》いと思い込んでおるからの」  こちらに目を戻《もど》したノーラが、困ったように、でも、楽しそうに笑う。  この娘《むすめ》とは、仲良くなれそうな気がした。  ただ、自分のことを話されているとも知らずににこにこと笑っている連れを見ていると、こちらの手綱《たづな》を上手に握《にぎ》りきれるかどうかは自信がない。  それこそ、まったく神のみぞ知るというやつだ。  わっちゃあ神と呼ばれておったのに。  ちょっと恨《うら》みがましい視線を向けると、連れはきょとんとしていた。  羊、羊、無垢《むく》な羊、と胸中で叫《さけ》ぶ。  それでも、その間抜《まぬ》けさ加減が、そう。 「たわけじゃな」  呟《つぶや》いた。  そんな羊が、大好きなのだから。 [#地付き]終わり [#改ページ]  あとがき  お久しぶりです。支倉《はせくら》です。  ただ、あんまり久しぶりな気がしないなあ、とこのあとがきを書きながら思っていたのですが、二ヶ月しかあいてなかったんですね。昔は一週間とかがものすごく長かったのに、最近はものすごく早いです。  たぶん、一日に十六時間とか寝《ね》ているからなんですよね。最近はどっちが夢でどっちが現実の世界なのかよくわかりません。時間的には寝ているほうが長いです。そんなわけで、世間の二ヶ月は私にとっての一ヶ月くらいにしかならないのだと思います。  さて、今回はいつもの長編とはちょっと違《ちが》う形式になっています。 『電撃《でんげき》hp』のほうに載《の》せていた短編と中編に加えて、書き下ろし短編を入れたものになります。  中編はホロの過去話で、短編は長編の幕間《まくあい》の話です。  中編はホロのお姉さん成分が、短編はホロの食い意地が主成分になっています。ロレンスはどこに行ったのでしょうか。気の毒でなりません。  しかし、今回最もプッシュするところはどこかと言われたら、書き下ろしになります。  書き下ろしは初のホロ視点。  当初はホロ視点で書けるかなあ、という不安がものすごく強くあったものの、書き出してみたらとても楽しかったです。読み返してみても、楽しんで書いているなあというのが自分で分かるくらいでした。なので、皆様《みなさま》にも楽しんでいただけたらと思います。  そういえば、まったく話は変わるのですが、ついこの間、とある作家さんが買った四百二十馬力の車というものに乗せてもらいました。  四百二十馬力です。いったいそんな馬力で日本のどこを走るのかという感じですが、もはやあれは車ではなくジェットコースターでした。加速すると血が体の後ろのほうに下がり、加速が終わると血が戻《もど》ってくるのが実感できるくらいです。  見た目もむちゃくちゃ格好良くて、車に疎《うと》い私でも並々ならぬものを感じました。  ただ、惜《お》しむらくはそんなすごい車であっても、徹夜《てつや》明けでボロボロになった作家さん四人が乗り込んだら行く先は夜景の綺麗《きれい》なベイエリアではなく、肩《かた》こり腰痛《ようつう》に効く温泉|施設《しせつ》でした。  しかも、みんなそれなりにいい歳《とし》なのに大はしゃぎで浴衣《ゆかた》着て、床《ゆか》が木だったので「皆で滑《すべ》ろうぜ!」なんて言ってスライディングしていました。これで酔《よ》っ払《ぱら》っていないのだからすごいです。私は自らの名誉《めいよ》のために言うと、そんなはしたないことはしていません。本当ですよ!  あとは、皆で互《たが》いの運動不足を罵《ののし》り合い、腕相撲《うでずもう》したり腕立て伏《ふ》せの回数を競《きそ》ったり、プリクラを撮《と》ったりとまるで修学旅行気分でした。  帰りはもちろん四百二十馬力のスーパーカー。  でも、原付バイクに抜《ぬ》かれてむきになって抜き返すのはどうかと思いました。  と、そんなことを書いていたらなんとかページが埋《う》まってくれました。  次の巻ではまたいつもの長編に戻ります。  もう少しロレンスを格好良くしたいなあ、と思いますが、どうなることやら。  それではまた、お会いしましょう。 [#地付き]支倉《はせくら》 凍砂《いすな》 [#改ページ] 狼と香辛料� Side Colors 発 行  二〇〇八年二月二十五日 初版発行 著 者  支倉凍砂 発行者  久木敏行 発行所  株式会社メディアワークス